ローマにおけるマント式ヘルマ柱の装飾美術化(庭園装飾・建築体・家具)―72―(?)》〔図8〕、そして《円盤投げ》〔図9〕を表しており、様式から紀元前1世紀にらしいことをうかがわせる。ヘラクレスのマント式ヘルマ柱は、この英雄が必ず身にまとっている獅子の皮がマントの代わりに表されているため、持物が欠損していても同定がたやすく、数多くの作例が確認されている。出土例や墓碑浮彫に表された例を見ると、ヘレニズム時代には神域内やその境界線、あるいは広場などに置かれていたらしい〔図3〕(注6)。パウサニアス(2,10,7)はシキュオンのギュムナシオンに「下半身がヘルマ柱の」ヘラクレス像があったことを伝えており、ヘルメスだけでなくヘラクレスのマント式ヘルマ柱もギュムナシオンと結びついていたことを推測させる(注7)。その他にも、パンやプリアポス、シレノス、ヘルマフロディトスといった豊饒を司る神や半神が、マント式ヘルマ柱の形で既にヘレニズム時代に表現されている。こうした数々の先例はあるものの、マント式ヘルマ柱という形態が大きくもてはやされるようになったのは、ローマ世界においてであった。現在ローマ国立博物館にある6体のマント式ヘルマ柱は、《アテナ》〔図4〕、《有鬚のヘラクレス》〔図5〕、《若きヘラクレス(通称テセウス)》〔図6〕、《ディオニュソス(?)》〔図7〕、《ヘルメス年代づけられている(注8)。どの大理石も同じで彫りも似ていること、いずれもマント式ヘルマ柱としてのコピーは存在しないこと、《有鬚のヘラクレス》と《円盤投げ》に関してはヘルマ柱ではない通常の彫像タイプも知られていることから、これら6体はローマ人の注文により、マント式ヘルマ柱という形態で既存の全身像タイプを利用して新たに制作されたと推測される。《円盤投げ》と神の姿を同列で扱い、彫像タイプを適当に組み合わせてグループ化する手法には、これらの神々に対する信仰心は感じられない。6体がローマのサルスティウス家庭園の地区から出土したと推測されることを勘案すると、庭園用の装飾品だった可能性が高い。また、キケロがトゥスクルムの別荘の「ギュムナシウム」と名付けた一角のために購入したアテナやヘラクレスのヘルマ柱も(注9)、同様にマント式だったかもしれない。彼は「ギュムナシオンにふさわしいような」彫刻ならなんでも買うよう友人のアッティクスに頼み、これらのヘルマ柱を手に入れた。彼は「ヘルマ柱があらゆるギュムナシオンに特徴的な」ものであるため、そして知恵の女神であるアテナはその象徴として相応しいため、これらの作品の入手を喜んだのであって、そこに宗教性を感じていたわけではない。マント式ヘルマ柱が設置されていたのは、何もローマを代表するような知識人の邸
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