鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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■ローマにおけるマント式ヘルマ柱の宗教性(礼拝像・お守り・葬祭)―73―宅の大庭園だけではない。ポンペイでは、トリクリニウムを含め10×7.5mほどの中庭でもヘラクレスのマント式小ヘルマ柱が出土しており、別の家のトリクリニウム(宴会の間)の床モザイクには、私邸の中庭らしき場所を飾るマント式ヘルマ柱が表されている(注10)。ギリシアのギュムナシオンで若者たちの心身の鍛練を見守ったヘルマ柱はこうして、ローマ人の知的自尊心をくすぐる異国風装飾彫刻として、彼らの宴会や余暇の場を飾るに至ったのである。信仰対象から装飾品へと変質するこうしたプロセスの中で、マント式ヘルマ柱は建築装飾の一部として、カリアティドやテラモンと似た機能をも担うようになった。ポンペイの「クリュプトポルティクスの家」では、オエクスの壁画にサテュロスとパンのマント式ヘルマ柱が、天井の持送りを支える柱として描かれている〔図10〕(注11)。マント式ヘルマ柱という形態は半ば角柱であり、それだけに建築領域に取り込みやすかったのだろう。同時にこの形態は、非常に装飾的な色彩を彫像に取り込むことを容易にした。ローマ世界で、強い色彩を持つ色石は紀元前2世紀以降、建築部材などに限定的に用いられていたが、ヘルマ柱は普通の人間の彫像に先駆けて、こうした石に彫られるようになった。既にヘレニズム末期に、ギリシア世界でヘラクレスのマント式ヘルマ柱は限定的に濃赤色の石に彫られていたが(注12)、ローマ世界ではさらに高価な石が使用されるようになった。エルコラーノ出土のヘラクレスのマント式ヘルマ柱の形をしたトラペゾフォロス(テーブルの脚)では、台座と柱部は黒色板岩、トルソ部はアフリカーノ、頭部は玄武岩、柱頭部はジャッロ・アンティーコという強烈な色彩の併置が試みられている(注13)。ローマ世界におけるマント式ヘルマ柱の宗教性からの乖離、私的装飾世界への移行は、ローマ時代におけるギリシア世界の例と比較するとはっきりする。キュレネではヘラクレスとヘルメスのヘルマ柱が建築要素としてヴォールトの持送りを支えているが、そのヴォールトはギュムナシオンのクシュストス(有蓋競走場)を覆うものだった(注14)。エフェソスでは、マント式ヘルマ柱は都市の大通りの門を守護していた(注15)。テゲアの劇場近くには紀元後194年にエフェボイがヘラクレスのマント式ヘルマ柱を奉納、コリントスでも劇場で同様のヘルマ柱が出土している(注16)。帝政期になってもギリシア世界では、マント式ヘルマ柱は多かれ少なかれ本来の宗教的・伝統的意味合いを維持し続けていたと思われる(注17)。だが、ローマ人にとってマント式ヘルマ柱がまったく宗教的意味を持たなかったの

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