■おわりに―74―かというと、どうやらそうでもないらしい。特定のタイプは、彼らの生活に密着した信仰の中に入り込み、一般ローマ市民の宗教の中に同化されていった形跡がある。ヘラクレスのマント式ヘルマ柱は、わずか数cmの大きさで貴石に彫られたものがヴェスヴィオ山周辺でいくつも出土している〔図11〕(注18)。ヘラクレスはイタリア半島で、商業・契約・財産を司る神としても信仰を集めた(注19)。貴石に彫られた彼の小ヘルマ柱は、厄よけのお守りと考えられる。ポンペイ出土の剣闘士の兜の頭頂飾りの正面にマント式ヘルマ柱のヘラクレスが浮彫で表されているのも、ギリシア以来の競技の守護神というよりも、そうした厄よけ信仰によるものかもしれない(注20)。プリアポスは東方由来の豊饒神で、ギリシア世界にはようやく紀元前4世紀頃入り込んだにすぎない。だがその後ローマ世界では、ムトゥヌス・トゥトゥヌスという土着の神と同一視されたことにより、都市部のみならず農村部でも広く信仰された。彼のマント式ヘルマ柱は既にギリシア時代に成立していたのだが、それほど普及はしなかった。一方ローマでは、プリアモスは墓の守護神ともみなされたため(注21)、彼のマント式ヘルマ柱は石棺浮彫の中にしばしば礼拝の対象として登場する。ローマのパラッツォ・ヴェネツィア所蔵の石棺を始め、いくつかの石棺に繰り返し表されている図像では、左端にマントの裾に果物を入れたプリアポスのマント式ヘルマ柱が立ち、その前に祭壇が置かれ、エロスたちが山羊を引いて犠牲式の準備を進めている〔図12〕(注22)。アミテルヌムの墓からはプリアポスのヘルマ柱の実物も見つかっており(注23)、葬祭儀式の中にプリアポスが組み込まれていたことを示している。その他、石棺や遺骨容器の正面の両端に、浮彫面の縁取りのようにマント式ヘルマ柱が表されている例も散見する(注24)。中央部にはディオニュソスの場面が表されていることが多いことから、ヘルマ柱は牧神のパンやディオニュソスの従者のサテュロスではないかと思われる。つまりここでもマント式ヘルマ柱は、死後の豊饒な世界を象徴していると考えられる。頭部式ヘルマ柱がギリシアのオリジナル全身像(特に肖像)を簡略化してコピーするための形式としてローマ世界で広く普及したのに比べれば、マント式ヘルマ柱は限定的な主題やコンテクストにしか登場しなかった(注25)。しかしその中で、ローマにおいて考案された建築や家具装飾への利用は、この形態が宗教から離脱し純粋に装飾的存在へと向かう上で大きな意味を持っていた。そして純粋な装飾と化すことで、
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