鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―84―いたことは間違いない。またポルトガルのAmaral Cabralのコレクションにも存在し、口縁部の文様に嘉靖年製の名残を残していることから考えるともう少し早い時期を提起しても良いかもしれない。ウィッテレーウ号からもこのタイプは引き上げられているが、文様がより丁寧で、極少量の破片のみが見つかっている。1590年代を軸に遅くとも1610年ごろまで製産されていたタイプと考えた。その他、見込みに鹿文を描き、縁部分に水草文を粗い筆運で表わした〔写7〕は類似品がサンディエゴ号から引き上げられている。〔写8〕は瓢形の瓶の一部で芙蓉手の文様が施されている。芙蓉手の瓶はサンディエゴ号からハッチャーカーゴの引き上げ品まで幅広い年代にわたって存在するが、時代の変遷とともに器形、文様に若干の変化がみられる。この破片は首の文様からサンディエゴ号のものに近いと考えられる。従って年代も17世紀初め頃といえる。〔写9〕は典型的な芙蓉手のタイプで、日本国内での出土も九州地域などでみることができる。年代は1590〜1630年頃と推定されており、ウィッテレーウ号の積載品とも年代が一致している。〔写10〕については金剛峯寺宝性院の発掘で、1610〜30年代の層から出土しており、上田氏の研究では1590〜1640までの年代が与えられている。4)この時代の陶磁器は、ハッチャーカーゴ(1644)の積載品を基準に考えた。まず、前述の〔写10〕と同じ流れで、〔写11〕の見込みに鳥文が描かれた杯が挙げられる。このタイプは海外ではクロウカップと呼ばれ、オランダでも伝世品が多く知られているが、年代の幅も広く、16世紀末〜17世紀前半全般に渡って生産されていたようであり、現にウィッテレーウ号、ハッチャーカーゴにも積載されている。しかし、見込みの鳥文が年代の変遷によって変化しており、これはハッチャーカーゴの積載品にみられるクロウカップの粗い鳥文に近い。〔写12〕の中皿は出土例を知らないが、ハッチャーカーゴにみられる鹿文皿の文様を更に粗くしたような簡略化された鹿文で、奇石も松も文様として形を残していない。17世紀半ば頃まで下った年代をここでは設定した。5)16世紀前半から19世紀初めまで続くインドネシアのバンテン遺跡同様、メキシコ市内でもà州窯の染付、五彩が出土していた。具体的な数量は今回集計をとらなかったが、壷の破片がわずかで大皿が大多数を占めていた。バンテン遺跡での出土品と比較すると、タイプのバリエーションが少なく、五彩は〔写13〕一点のみで一般的に餅花手と呼ばれるタイプはみられない。〔写14〕は口縁部で、左2つの破片の素地が五彩の皿と比較するとより白く釉薬も光沢と透明感がある。左側の破片と同タイプがウィッテレーウ号の引き上げ品と同じで、また最近の沈没船の例では1608年に沈没

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