鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―85―したといわれるビントゥアン沈没船からも同じタイプが見つかっている。国内では真ん中の破片とともに堺環濠都市遺跡SKT3のV期層(1575−1615年)からの出土が報告されていることから17世紀初めに集中的に生産されたタイプであることがわかる。右の破片は見込みに鳳凰文を描き、周囲に窓絵を配置した皿であるが、ウィッテレーウ号、平戸和蘭商館跡、インドネシアのソンバ・オプー城跡から出土している。〔写15〕の大皿の2つの破片も同じくソンバ・オプー城跡出土。共に17世紀前半に入る年代のものである。6)康煕年間の景徳鎮のものは〔写16〕の瑠璃釉金彩杯、〔写17〕の染付の碗、〔写18〕の染付壷、〔写19〕の五彩盃、〔写20〕の五彩碗が挙げられる。〔写20〕は双頭の鷲の文様が描かれた珍しい破片である。スペイン王やポルトガル王など地位のある人物が紋章を器表に描くよう注文する例は16世紀から知られていて、現在ポルトガルにあるコレクションにいくつかの例が存在する。これはカルロス1世に始まりカルロス2世で断絶するハプスブルグ家の時代(1516−1700)におそらく注文されたものか、アウグスティン修道会による注文とも考えられるが、いずれにしても、遅くとも18世紀始め頃を下限とするのが妥当である。7)少数の景徳鎮染付を含むが、福建省の徳化窯の製品と一般に「広東ウェア」と称されている陶磁器で、実態は景徳鎮で焼成され、広東まで運ばれて絵付けをされた一群を中心とする。徳化窯の陶磁器は白磁が早い時期から輸出されていたことが知られているが、18世紀以降になると染付も生産しており、日本やインドネシアでも出土が確認されている。型打の成形法が特徴である(注4)。〔写22〕は18世紀の徳化窯に見られる染付碗で口禿げになっている。これは口縁同士を合わせて焼成する窯詰め法による。〔写21〕も同じく徳化の型打ちによる製品とみられ、黄色と緑の上絵が施された小盃である。広東ウェアの年代はその殆どが18、19世紀に生産されたものだが、出土例があまり知られていないため詳細な編年はわからない。〔写23〕は大きな楕円形の皿で、白地に赤と金彩が入った細かな文様である。裏面は布目のような筋が見られる。一点のみの出土。今回テンプロマヨール博物館以外でフランツマイヤー美術館でも伝世している広東ウェアを実見する機会を得たが、その中にメキシコ市の領事館の設立を記念した皿があった。“A Su Proclamación El Consulado de México” 1789年と見込みに書かれている。この他にも新しい市の設置を記念したものなどがあり、いずれも注文品で1790年、1780年と年号が入っている。

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