―86―考察以上見てきた8つの分類の中で、タイプや器形に富んでいたのは2の時期と3の時期である。景徳鎮の製品については碗、皿が16世紀第三四半世紀頃から17世紀初めにかけて多く見られ、特に16世紀末から17世紀初めにかけての〔写6〕の皿が目立って多かった。逆に17世紀半ば頃から後半にかけての製品はバリエーションが少なく、特に康煕年間のものは皿の少なさが目立つ。18世紀の製品は更に少なく、若干の景徳鎮染付と前述のように徳化窯の製品と広東ウェアが中心である。日本や東南アジアで頻繁に出土している広東省で生産された染付け碗は見られなかった。大きな流れの中でこれらの出土品を見てみると碗の類は明末頃から少数の例外を除いて小型化し、碗と言うよりも細長い盃の形へと変化を遂げている。また大皿は章州窯の製品を最後に急に数が減っていく傾向にあり、おそらく18世紀以降に再び広東ウェアとして皿の需要が増えていくとみられる。興味深いのは16世紀第三四半世紀から終わりごろの碗で、日本での出土と共通するものもありその数も多いのだが、どのように用いていたのか、当時の食文化が気になるところである。またこの後の器形としての碗の消滅がどのような文化的背景を反映しているのか、今後更に注目してその変遷について調べていきたい。結論今回はテンプロマヨール遺跡とその周辺地区からの出土を見てきたが、テンプロマヨールの発掘からの出土品については16世紀第三四半世紀頃の製品から、上述したように16世紀終わりごろから17世紀初めまで年代の陶磁器の出土が中心であった。16世紀、ガレオン貿易開始時期にはすでにこの地区には市場が設置され、活発な経済活動が繰り広げられていたことは、当時の文献からも知られている(注5)。従っておそらくこれらの出土品も当時の市場と関連した出土であると考えられる。特に〔写6〕の皿は同文様、同サイズのものがかなりの数みられたことは注目に値し、個人の消費と言うよりは商品として扱われていた可能性が高い。更に注目したいのはガレオン貿易初期のころから既に中国陶磁器がかなりの量輸入されていたことや、これらが限られた人々にのみ特別な流通経路を辿って供給されていたというよりは他の消耗品と同様に市場で売られていたということである。又、重要なのはこの初期の中国陶磁器はポルトガルのいくつかのコレクションに存在するタイプと類似、あるいは同じタイプがあり、タイプの構成が似ていることである。積荷港における物品の集積のシステム、初期のガレオン貿易におけるポルトガル人の介入
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