―3―ラを始めとするヘレニストたちやジョルジョ・ダ・トレビゾンダに、膨大な量のギリシア語写本をラテン語に翻訳させるなど、ベッサリオンとともに、15世紀中葉のローマにおけるギリシア文化の擁護者の一人として知られている。サン・ジョヴァンニ・クリソストモ聖堂との比較で見るならば、聖ラウレンティウスのサイクルを挟んで、聖ヒエロニムスと聖ヨアンネス・クリュソストモスが同じレベルに配置されているのは興味深い〔図5〕。なお、聖ヒエロニムスの台座のS.BONAVENTVRAという銘文は、教皇シクストゥス5世(16世紀末)の時代に書き換えられたものであり、現在もこの聖人は聖ヒエロニムスと同定されていることを付言しておく。第二の作例は、ローマのサンティ・アポストリ聖堂に存在した、ベッサリオン礼拝室のヴォールト天井に描かれていた。本礼拝室は、1466−68年頃、アントニアッツォ・ロマーノによって装飾を手掛けられた。17世紀後半にパドヴァの聖アントニウスの礼拝室に変更されて以降、その存在が忘れ去られていたのだが、1960年に建築士のC. ブジリ=ヴィチによって偶然発見され、一部現存することが明らかとなった。その後、大規模な修復が行われ、近年、公開されたばかりである。しかしながら現在は、コンカの一部と、その下方に描かれた、大天使ミカエルに関連する2つのエピソードの部分など〔図6〕が見られるだけで、コンカの大部分とヴォールト天井はアントニウス礼拝室に組み込まれており、実際に当時の装飾を見ることは不可能である。ニカイアの大主教であったベッサリオンは、フェッラーラ・フィレンツェ公会議で東西教会の統一のために尽力した、ビザンティン帝国側の中心人物だった。公会議終了後、一旦はコンスタンティノポリスに戻るが、1439年12月に、エウゲニウス4世によってローマ教会の枢機卿に任命され、翌年1月に、ローマのサンティ・アポストリ聖堂が彼に委ねられると、その後イタリアに住み、教皇使節などを務めながら、東方世界のキリスト教徒たちを救うため、対トルコ戦を提唱するとともに、ギリシア文化の保存に力を注いだ。コンスタンティノポリスを占領したトルコへの十字軍派遣が間近に迫った1463年4月に、サンティ・アポストリ聖堂、右側第3番目の聖女エウゲニア、洗礼者聖ヨハネ及び大天使聖ミカエルに捧げられた礼拝室を、教皇ピウス2世(在位1458−64)から与えられたベッサリオンは、自身の遺骸を収める墓の建造と礼拝室の修復・装飾を、遺言書の中で指示した。その当時のベッサリオン礼拝室の装飾に関しては、19世紀末にE. ミュンツよって公刊されたベッサリオンの遺言書、及びフレスコ画の主題を規定する、2通のアントニアッツォ・ロマーノとの契約書を通じて、窺い知ることがで
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