鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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近代日本におけるターナー受容について―104―『西国立志編 原名 自助論』でのターナー紹介研 究 者:郡山市立美術館 学芸員  菅 野 洋 人今回の調査では、「ターナー」もしくは「タアナア」など、イギリスの風景画家ターナー(Joseph Mallord William Turner 1775−1851)について一言でも触れられている明治時代の日本語の文献をまず調査した。これまで、最初にターナーを紹介した日本語の文献は1900(明治33)年3月の『美術評論』第24号に掲載された、和田英作の「倫敦美術館の記 ミドルズブローに於て」であるとされてきた。しかし今回の調査で、それより30年前の1870(明治3)年に発行された『西国立志編 原名 自助論』において、ターナー紹介がなされていることがわかった。明治新政府ができて間もない時期に発行されたこの本は、著者がスコットランド生まれのサミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles 1812−1904)で、1858年7月にジョン・マレー社から発行された“Self-Help, with Illustrations of Character and Conduct”の、1867年の増補版を、中村正直(1832−1891)が翻訳したものである。中村は1866(慶応2)年に幕府によってイギリスへ留学を命じられ、1868(明治元)年に帰国するのであるが、その際にイギリスから持ち帰ったのが、この増補版の“Self-Help”であった。それを読んだ中村は、当時のイギリスの隆盛の秘密がここにあると信じ、この本を訳して日本で出版することは、新しい日本の発展に必ずや貢献するであろうと思ったのだった(注1)。当時までの欧米史上に名を残す300人以上の立身出生談をまとめたその本は、中村の翻訳によって「天は自ら助くる者を助く」で始まる『西国立志編』として発行されると、1872(明治5)年から刊行され始めた福沢諭吉の『学問のすすめ』に次ぐ大ベストセラーになった。この本は11冊に分かれており、ターナーは、その5冊目に当たる「第六編 芸業ヲ勉修スル人ヲ論ズ」の「八 篤兒涅爾 薄値ノ画ヲ軽ンゼザリシ事」で語られている。ターナーは、「篤兒涅爾」と当て字がされ、「トル子ル」とルビがふられている。内容は、だいたい次のとおりである。ターナーはイギリスのクロード・ロランと呼ばれるようにまでなった画家である。彼の父親は、ロンドンで床屋を営んでいた。ある日、来店した客が、ターナーが描いた絵を見て大変感激した。それならばと、父親は息子に好きな絵を学ばせることにした。ターナーは貧困であっても工夫して絵を学び、他人に雇われ挿絵なども描かされ

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