―105―たがそれを苦とも思わず、むしろその仕事を自分の修練とした。報酬が少なくとも決して手を抜かず、次に描く絵は必ず前の絵よりもよくなるはずだ、と信じていた。それによってターナーはぐんぐん画才を伸ばし、名画家になったのだった。ターナーの絵に称賛などいらない。イギリスに残っている彼の作品それ自体が、彼の優れた業績を伝えるのである。さて、以上であるが、現代において原書とその翻訳とを比べてみると、明らかに原文を正確に訳していない箇所があることがわかる。それは最後のほうで、ターナーを称賛する、‘Ruskin’s words, ‘as steady as the increasing light of sunrise’’(注2)という箇所である。ここは、「「昇る太陽の如く着実に」というラスキンの言葉」というような訳になるはずだが、中村はラスキンという語を全く無視して「旭日の光のごとく画才ますます生じ」としている。これは、恐らく中村がラスキンを知らなかったことから起きた意訳であろうと思われる。いずれにせよ、この『西国立志編』は画家を志す人々にも読まれたらしく、例えば、日本画家の竹内栖鳳は幼少の時期にこの本に感化されたと語っている(注3)。栖鳳は1897(明治30)年には、自らの画塾において週に2回、ラスキンの『近代画家論』についての翻訳を、真宗大学教師で英文学者の徳永鶴泉から学んでいた。そしてその栖鳳自身の作品にターナーの影響が見られることは、永濱嘉規氏が指摘してもいるが(注4)、栖鳳とターナーとを最初に結びつけたのは、この『西国立志編』であったと考えられる。そして黒田清輝は、参議大臣を目指すような友人たちに囲まれていた少年時代、最も愛読し感化を受けたのがこの『西国立志編』であったと語っている(注5)。『西国立志編』の文章は、脚色の目立つものではある。明治30年代中頃までの日本の文献にターナーの名前はほとんど見当たらないが、その後はまるで読者がその名前を当然知っているかのように扱われている。このことは、『西国立志編』がどれだけ広く読まれ、ターナーという名前が一般に認知されていたのかを示すものと考えられる。明治の文芸雑誌におけるターナー紹介美術専門誌にターナーの名前が出てくるのは、1900(明治33)年3月に発行された『美術評論』第24号掲載の和田英作「倫敦美術館の記 ミドルズブローに於て」においてである。和田は、ロンドンのナショナル・ギャラリーにおいて「タアナア館」を見た時の興奮を生々しく伝えている。これは、画家としてのターナー紹介の最初とい
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