―106―うだけでなく、ターナーの作品を実際に見た日本で最初の感想文ということになるだろう。洋書、あるいは立身出世の読み物でしか日本に知られていなかったであろう画家ターナーは、ここから次第にその実像を明らかにしてくる。その後、『美術評論』が1902(明治35)年3月に『美術新報』となり、そして水彩画専門誌『みづゑ』が1905(明治38)年7月に創刊となった。どちらでも、ターナーはラスキンやイーストなどの翻訳文の中で、積極的に紹介されていく。しかし、今回の調査で最も印象に残ったのは、それら美術専門誌ではない、文芸雑誌におけるターナー紹介である。まず、ターナーの作品図版は、『みづゑ』が創刊される4ヶ月前に発行された、『精華』の第2巻第3号(明治38年3月16日、精華書院)に見られる(注6)。「オデュッシウス、ポリュフェエモスを嘲ける図 英人 タアナア」としてモノクロで紹介され、図版の下には、「ULYSSES DERIDING POLYHEMUS National Gallery, London」とある。『精華』とは、久米桂一郎、蒲原有明、黒田清輝、岩村透らによる西洋の美術と文学との紹介が目的の雑誌で、ターナーに関する記事はその図版のほかに、第2巻第1号(明治37年12月)に掲載された久米桂一郎口訳「ウヰスラー=対=ラスキン及び印象主義の起源」がある。この記事で久米は、ラスキンを印象派の最初の理論家であるとし、ターナーを印象派の先駆者と位置付け、ピサロやモネたちはイギリスへ行って初めて印象派の画家となった、としている。しかも同内容の記事は翌年の『明星』巳年第2号(明治38年2月)にも掲載されている(注7)。久米は、ターナーの作品を実際に見たことがある、当時としては数少ない日本の画家のひとりであり、しかも日本の西洋画壇で指導的立場にあった。イギリスをほめると黒田清輝に嫌味をいわれたとも伝えられる久米であるが(注8)、これらの記事は、当時日本で盛んに紹介されていた印象派とターナーとを結びつける論として重要であるばかりか、久米の、ターナーをはじめとするイギリス美術の擁護者としての重要な役割を示すものではないかと考えられる。また、ターナーの生涯については『美術新報』や『みづゑ』よりも先にやはり文芸雑誌で紹介されていた。それは、1908(明治41)年8月1日発行の『青年之友』第1巻第11号に掲載された、安藤復蔵「画聖ターナー」である。内容は、ラスキンの『近代画家論』のほかに、1862年発行のWalter Thornbury, “The Life of J.M.W.Turner,R.A.”と1879年発行のPhilip Gilbert Hammerton, “The Life of J.M.W.Turner,R.A.” が下敷きになっている。『青年之友』とは、1907(明治40)年11月に創刊された雑誌で、翌年12月まで続き、
元のページ ../index.html#114