鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―107―その後は『婦人之友』第2巻第1号に吸収されている。執筆者の安藤復蔵は、1908(明治41)年6月1日発行の『青年之友』第1巻第9号において、「美術家と体育」という記事も書いているが、彼はそこで担当記者によって「安藤氏は慶応義塾理財科の出身で、青年画家中の錚々たるものである。彼は昨年文部省の美術博覧会に二枚の画を出して天下に其名を知られた。彼は経済学者であり、美術家であると同時に、有名なる体育家で、常にオールドボーイ(老いたる小児)を以て自ら任じて居る」と紹介されている。実際、安藤は1907(明治40)年の第1回文展で《池畔の朝》と《驟雨》が入選しており、第9回文展でも《雪》が入選している。加えて1904(明治37)年の第9回白馬会展でも《夕暮》が入選しているところを見ると、洋画家としてある程度活動していたと考えられる。その「美術家と体育」の中で、安藤はやはりターナーについて言及しているが、なぜ彼がターナーについてこれほど熱心に紹介していたのかは不明である。安藤復蔵が「画聖ターナー」を発表した1908(明治41)年に発行された文献には、特にターナーについての記事が目立つ。『美術新報』が創刊された後、1904(明治37)年から毎年10件から15件程度の記事が見られるが、この年だけはその倍の数になっている。それには、1906(明治39)年に発表された「坊っちゃん」(『ホトトギス』4月号)と「草枕」(『新小説』9月号)とにおいて、夏目漱石が言及したことでより多くの人々にターナーが知られるようになったことも理由だろう。1902(明治35)年に日英同盟が締結され、1910(明治43)年のロンドンでの日英博覧会開催という歴史の中で、日本においてイギリスが特に注目されるべき国になっていたことも重要である。ラファエル前派やホイッスラーについて精力的に紹介していた雑誌『明星』も、林田春潮の「タアナア研究」を、この年の1月号から4月号にかけて3回掲載し、それまで『精華』と『みづゑ』でしか掲載されなかったターナーの作品図版を4月号で2点掲載している。林田の記事の内容は、Walter Shaw Sparrow, ‘Turner’s Monochromes andEarly Water-Colours’(“The Genius of J. W. M. Turner, R. A.”, Studio, 1903.)の翻訳である。その内容はターナーの初期の水彩画における業績を概観するものである。しかも、ターナーの仕事は油彩画よりも水彩画にこそ魅力があり、ターナー自身、油彩画よりも水彩画に没頭していたことを示していた。つまり、それまで油彩画のための習作程度だと見なされていた水彩画は、ターナーによって鑑賞に耐え得る絵画として成立したのだということを暗に示す内容にもなっているのである。これは、1904(明治37)年から翌年にかけて、『美術新報』と『明星』において鹿子木孟郎と三宅克己との間

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