―108―でなされた水彩画論争を受けてのものだとも考えられるだろう。ラスキンの功罪美術雑誌以外での文芸雑誌において、明治30年代後半以降、イギリス美術はかなり紹介されている。これまで見てきたターナー以外では、ラファエル前派やホイッスラーについての記事も目につく。そこで、以上のターナー、ラファエル前派、ホイッスラーについて考えあわせると、それらをつなぐ共通項として、ジョン・ラスキンが浮かび上がる。ターナー擁護に始まる『近代画家論』の著者で、美術評論家として絶大な存在感を示していたジョン・ラスキン(1819−1900)は、当然日本でも積極的に紹介されていた。ならば、日本人はラスキンというフィルターを通してターナーに接してきたという可能性もあるのである。実際、ターナーに言及されたすべての記事のうち、その一割強がラスキンにも言及されている。そこで筆者は、ラスキンについての日本語の文献からターナーを探す作業も行なった。その中で非常に興味深かったのは、フェノロサの存在である。アメリカ合衆国の美術評論家で、明治時代中期の洋画排斥運動の主導者だったアーネスト・フェノロサ(1853−1908)は、いうまでもなく、日本の美術界において多大な影響力をもっていた。ハーヴァード大学時代、ラスキンの友人だったチャールズ・エリオット・ノートンに教えを受けていたフェノロサは、1878(明治11)年に東京大学文学部教授となり、1889(明治22)年に開校した東京美術学校で、翌年にわたってラスキンの『近代画家論』をもとにした美学の講義をしていたのである(注9)。しかし、その内容はといえば、反ラスキンを全面に押し出したものだった。1889(明治22)年6月発行の雑誌『新演説』第3・第4号掲載の「西洋及日本ノ美術」や同年12月発行の『国華』第2号掲載の「美術哲学概論」において、フェノロサは、自然を模倣することこそその目指すところであるという西洋美術の基本的考えが、最近日本においても流布し始めていることは非常に嘆かわしいと述べ、ラスキンの美術論は日本の美術にそぐわないものであることを主張している。もっとも、ラスキンはフェノロサによって批判の対象となってはいるが、見方を変えれば、このことは既に明治20年代の日本において、ラスキンが西洋美術史の理論家の中の代表的人物のひとりとして位置づけられていたことを示してもいる。ただし、少なくとも日本語によるフェノロサの文献にターナーに触れられたものは見当たらない。以上のようなフェノロサのラスキン批判は、日本におけるターナー受容においてか
元のページ ../index.html#116