鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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注渡部昇一「中村正直とサミュエル・スマイルズ」、サミュエル・スマイルズ著・中村正直訳 Samuel Smiles, “Self-Help”, Oxford, 2002. p. 143.■「竹内棲鳳氏」、黒田譲著『名家歴訪録』上巻、明治32年。■永濱嘉規「竹内栖鳳のヨーロッパ 「羅馬之図」及び写真活用について」、『王舎城美術宝物館―109―なりの影を落としていたかもしれない。前述の林田春潮「タアナア研究」は、翻訳ではあるものの、ラスキンはターナーの作品を通して自分の詩を作っていたのであり、世間がターナーについて冷淡になったのはラスキンへの反動である、というラスキン批判にもなっている(注10)。久米桂一郎のラスキン評価は好意的なものだったということもあり、ラスキンを通して考えると、ターナーの日本への紹介とは、意外に複雑なものだったのかもしれないのである。日本におけるターナー作品の紹介について明治・大正時代にターナーの作品が日本に招来されたことを示す文献は見当たらない。『美術新報』第11巻第10号(大正元年8月10日発行)に原色版で図版「ヴエニスターナー筆(三越呉服店所蔵)」が掲載されているが、それはロンドンで日比翁助が原撫松に描かせた模写であった(注11)。日本人の西洋画コレクションのうち、明治から戦前までの中では、昭和初期に公開された松方コレクションにのみターナー作とされる作品が含まれていた。その数は10点(そのうち1点はトマス・ガーティンとの共作とされる)で、そのうち売り立て目録や当時の雑誌で図版が確認できたのは8点のみであった(注12)。また1929(昭和4)年、当時の大英博物館館長であったローレンス・ビニヨンの来日にあわせて開催された「英国水彩画展覧会」には、5点のターナーの水彩画が出品されていた(注13)。ターナー作品の日本人による模写ついては、筆者はこれまで、戦前の日本人によるターナーの模写は少なくとも10点以上がなされ、そのうち5点が現存していることを確認していた(注14)。戦前の日本人画家が模写した西洋の画家の数では、ティツィアーノ、ベラスケス、レンブラント、コローに次ぐ多さである。今回の調査では、新たに白瀧幾之助の《雨、水蒸気、速度》の水彩画による模写と寺崎武男の《小川にかかる橋》の油彩による模写が発見された。以上については、今後の日本におけるターナーをテーマにした研究において、改めて考察したい。『西国立志編』昭和56年、講談社。

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