鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―4―Latina, e li quattro della Chiesa Greca…)」と記されている。特に、ベッサリオンが規定Graecos)』の中で、東西教会の統一とフィレンツェ公会議の合意に従うことを勧告しきる〔図7〕。問題のヴォールト天井に対しては、1465年8月23日付けの契約書の中で、「(交差ヴォールト天井の一区画に)一人の福音書家の両側に、(それぞれ)座って書き物をしている一人のギリシア(教会)の教会博士と一人のラテン(教会)の教会博士(itemした「座って書き物をしている東西の教会博士」という指示は、サン・ジョヴァンニ・クリソストモ聖堂の東西教父と類似する描写である。この福音書記者の両側に東西の教会博士を描くという図像プログラムは、ニッコリーナ礼拝堂の場合と同様に、ベッサリオン自身が多大な功績を果たした、フィレンツェ公会議での「東西教会の統一」の合意を称揚していると考えられている。まさに礼拝室の取得と同時期の1463年4月に、ベッサリオンがコンスタンティノポリスの総主教に叙任された時、実際に、彼自身が『ギリシア人たちへの手紙(Epistola adている。3.ベッサリオンとヴェネツィア周知の通り、ベッサリオンとヴェネツィアとの関係は非常に深く、相互信頼に根ざした極めて友好的なものであった。彼のヴェネツィアとの出会いは、ビザンティン皇帝やコンスタンティノポリス大主教などと一緒に、フェッラーラ公会議に出席する前に立ち寄ったのが最初だった。ベッサリオンたちが、自国と似た雰囲気を持つヴェネツィアに親しみを感じたであろうことは想像に難くない。その後ローマへ移住してからも、しばしばヴェネツィアに滞在し、多くのヴェネツィア人と交誼を結んだ。1461年に、ヴェネツィアの大評議会(Maggiore Consiglio)は、ベッサリオンに対する敬意の印として、ヴェネツィア貴族の地位を与えるとともに大評議会のメンバーに選出する決定を行う。ベッサリオンは公文書に“Bessarion Venetus”と署名する場合in quolibet quatuor angulorum unum Evangelistam, et ex utraque parte unius Evangelistaeunum Doctorem graecum et alium latinum, sedentes in studio scribentes)」と明記されている。その200年後に、サンティ・アポストリ聖堂のB. マルヴァシア神父によって書かれた、聖堂の歴史に関する概説書(1665)の中でも、「ヴォールト天井に、4人の福音書家、4人のラテン教会の博士と4人のギリシア教会の博士が描かれていた(…sopra la volta dell’Arcone vi erano dipinti li quattro Evangelisti, li quattro Dottori della Chiesa

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