木村探元の京都における作画活動について―117―(『上京日記』)に記しており、京都においてどのような活動をしていたのかが具体的研 究 者:宮内庁三の丸尚蔵館 学芸員 斉 藤 全 人はじめに江戸時代中期、薩摩画壇で活躍した絵師に木村探元(1679〜1767)がいる。探元は、25歳で江戸へ上って狩野探信守政(1653〜1718)の門人となり、薩摩に帰郷してからは江戸で学んだ狩野派様式をもとに、薩摩藩島津家の作画御用などをつとめた。本研究で着目したのは、探元の京都における活動である。探元は享保19年(1734)、島津家と親交を持っていた近衛家に招聘される形で上京し、約半年間京都に滞在、近衛家当主家久のもとで様々な作画活動を行っている。探元はこの上京中の出来事を日記に判明する。本研究では、探元の京都滞在中の作画活動を『上京日記』をもとに整理し、現存する作例の分析と併せて、その傾向や特徴の検討を行った(注1)。1.京都滞在時の探元の作画活動 ―『上京日記』を中心に―〔表1〕は、『上京日記』をもとに、探元が京都に滞在する間に行った作画活動をまとめたものである(注2)。約半年間という短い期間ながら、作画依頼が殺到したこともあり探元は日々制作に取り組み、数多くの注文に応じている。本研究において探元の京都における作画活動を整理してわかったことは、探元に求められた作画内容に大きく分けて二つの傾向が認められることである。一つめの傾向としては、〔表1〕No.2、10、12、17の作画が注目される。結論から言えば、探元に対しては京都の地では目にすることの難しかった琉球や中国の動植物を描くことが求められた。このことについては別稿で詳しく論じたので(注3)、ここでは簡単に触れるにとどめるが、まず、禁裏から探元に命じられた衝立(No.2)の制作に関しては、近衛家久から「下書を於京都珍敷図書申候様に」という画題に関する指示があった(享保19年12月3日)。それを受けて探元は「つぐ・千年草・ひいんこ・木瓜ニ山鳥・鶴・蘭」を下絵として描き禁裏に納めている(享保19年12月13日)。ここで出てくる「つぐ」とは、熱帯アジア原産のヤシ科の植物黒棕(クロツグ)、「千年草」とは、熱帯常緑低木ドラセナの一種、「ひいんこ」は熱帯地方の鳥緋鸚哥(ヒインコ)を指す。探元の談話集『三暁庵随筆』中の「京都御用絵の事」という項目の中で、「突立屏風は琉球の黒つく、片面は木花と何の繪か」とあることから、最終的に探元は、衝立の片面には琉球の黒棕を、もう片面には木瓜の絵を描いたことが記録
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