―118―「自分師匠探信父探幽にて候に静隠(探元)は孫弟子にて候」と述べているように、から読みとれる。これらの珍しい画題のうち、ツグ、千年草、蘭は、探元が近衛家煕からの注文で描いたと考えられている「中山花木図譜」(武田科学振興財団杏雨書屋蔵)に実際に描かれている〔図1、2〕。これは琉球の植物を画巻形式で並べた一種の植物図譜である(注4)。つまり京都では珍しいものを描くようにという家久の指示のもと、探元は禁裏衝立に琉球の植物を描いたのである。また、〔表1〕No.10、左小弁広橋兼胤が探元に依頼したのは「唐花鳥之懸物一幅」であった(享保20年3月10日)。同じくNo.12、近衛家久からは「唐花鳥書付」が申しつけられ(享保20年3月16日)、No.17、交野惟肅少納言からも「唐花唐鳥之花鳥絵四幅」を探元は依頼されている(享保20年閏3月10日)。特に惟肅からは、鷓鴣(シャコ)という中国の鳥を描き込んでほしいとの具体的な要望が出ている。こうした背景には、この頃より京都の上層階級・知識人らの間で盛んになった博物学のブームがあったことは言うまでもない。そして薩摩絵師の探元が、琉球そして中国特有の花鳥の絵を描くことができたのは、薩摩藩の琉球支配という状況があったからこそである。中国と交易のあった琉球を支配することで、薩摩藩は琉球ならびに中国の情報や物品を入手することが可能であった。京都では実物を目にすることの難しい異国の動植物を図像として提示できる探元が、重宝されたことは想像に難くない。しかし探元が京都において好奇の対象、いわば色物として扱われていたかと言うと、決してそれはあてはまらない。一方では、探元が正統的な狩野派の一絵師としてみなされていた様子も見受けられるのである。日記の記述からでは詳しい内容が判明しないものもあるが、〔表1〕No.4の寿老図、No.6の鍾馗図、No.7の真山水図屏風、No.8の富士山布袋の三幅対、No.11の朱書の鍾馗図など、典型的な画題での探元への作画依頼も多かったことがわかる。探元は、十代の時分には薩摩の絵師小浜常慶、また坂本養伯に絵を学んだとされているが、元禄16年(1703)には江戸まで行き狩野探信に入門している。探信は狩野探幽の息子で鍛冶橋狩野家二代目当主である。ただし探元自身が『白鷺集』において探元は探信に学ぶというよりは、すでに没していたがその父探幽に私淑する気持ちが強かったようである。探元が薩摩で遺した多くの絵を見ると、和漢を混合した探幽様式が見事に探元に受け継がれていたことがわかる。同じように、家久から「此度之御絵様は何そ珍敷物考申候様に」という指示が下されるのだが、それと同時に大徳寺の「探幽松之屏風」を下書きの中の一つに加えるようNo.5、院御所から屏風の作画御用を申しつけられた時も、No.2の禁裏衝立の時と
元のページ ../index.html#126