鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―119―にも言われている(享保19年12月16日)。これは現在も大徳寺に伝わる探幽筆「四季松図屏風」を指すものと考えられている。この家久の指示も、探元が探幽様式を習得しているという認識が前提となっているはずである(注5)。また、探元が近衛家煕と初めて面会した時には、家煕からNo.7の真山水図屏風が「心を尽して細かに気を付て見所の多い事じゃ」と賛辞を頂戴している(享保20年閏3月24日)。珍奇なモチーフを画題とした花鳥図ではなく、真体の山水図が評価されていることからも、探元の絵師としての技量が認められていた様子がうかがえる。またこの時、家煕は探元に自身の所有する絵の筆者が毛益か易元吉か見定めるよう持ちかけている。これも探元が鑑識眼を持った絵師としてみなされていた証拠であろう。以上のように、京都において探元は、宮廷公家衆にとって、知的好奇心を充足させる琉球や中国の画題を描くことができるという大きな付加価値をもち、なおかつ狩野派絵師としても十分な技量を有する希有な人材として、高い人気を博したと結論づけることができる。2.現存作品研究京都で様々な作画活動を行っていたことが『上京日記』からうかがえる探元であるが、実際に現存する当時の作例となるとごくわずかである。本研究では京都滞在中の画事に限定せず、探元が京都の受容層に向けて制作したと思われる作品を、新出作品をまじえて考察を行った。○「中山花木図譜」(武田科学振興財団杏雨書屋蔵)まずよく知られているものとして、すでに挙げた「中山花木図譜」がある。近衛家煕の注文品であると思われるこの作品は、『槐記』享保9年10月23日条にその記述が認められることから、京都滞在中に制作したのではなく、それより10年も前にすでに家煕が所有していたことがわかる。すでに先行研究によって指摘されているように、探元は享保19年に京都へ上る以前から、しばしば作品を京都に送っていた(注6)。琉球植物を一つ一つ並べて描写したこの図譜は、京都で探元に求められた役割の前者に当てはまるものである。○「寿老図」(個人蔵)〔図3〕次に、大正7年の近衛公爵所蔵品売立目録に掲載されている探元筆「寿老図」がその伝来からも注目される。「薩陽大貳法橋探元」の落款と印があり、探元は上京して

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