―120―すぐに家久の推挙によって法橋に叙任されていること、そして「大貳」の号も家久から賜ったものであることを考えると、この図が探元上京後の作例であることは間違いない。「壽」と大書された軸を持つ寿老人が描かれた本図は、〔表1〕No.4の探元が家久に披露した「寿之字福禄寿之図」(享保19年12月13日)と内容が一致する。この作品については、山下氏の調査によってその現存(個人蔵)が近年確認された(注7)。○「蘇東坡図」(三時知恩寺蔵)〔図4〕もう一点が三時知恩寺所蔵の「蘇東坡図」である。落款はこれも「大貳法橋探元斎」、印章は「薩陽元図書」朱文円印と「法浄」朱文方印である。この作品も落款から法橋叙任後の制作であること、そして伝わったのが近衛家とも関係の深い門跡寺院であることから、探元京都滞在期の作品である可能性が指摘されていた(注8)。この図の上部には竹が描かれ、ここに「公雄寫之」という落款が記されている。この公雄という人物についてはこれまで不詳とされてきたが、これは参議を経て権中納言正三位に至った公卿風早公雄(1721〜1787)のことである。落款とともに捺された印も公雄の号である「桂渚」と読める。ただし公雄は探元が上京した享保19年にはまだ15歳であり、そもそも公雄という名に改名するのは延享4年(1747)正月1日のことである。このことから、「蘇東坡図」は探元が薩摩に帰郷してから後に制作し、延享4年以降に京都へ送ったものである可能性が高い。竹の部分はそれから書き加えられたのではないだろうか。「大貳法橋」の落款はその頃に制作された絵にも用いられており齟齬はない。探元が上京前から作品を京都に送っていたことはすでに述べたが、享保20年以降京都より薩摩に帰郷してからも、探元は京都からの制作依頼に応じていたようである。実際、京都滞在中でも、No.17の花鳥図(「唐花唐鳥之花鳥絵四幅」)を依頼した交野惟肅は、絵の制作は急がなくても帰郷してからでもよいと言っている(享保20年閏3月10日)。また近衛家久も、No.19の屏風(「二枚屏風之押物」)を国元で描き上げてから進上するように命じている(享保20年4月6日)。琉球植物を描いた「中山花木図譜」とは異なり、「寿老図」「蘇東坡図」は画題としては珍しいものではなく、筆法も探幽風の水墨人物図である。探元が京都で求められたもう一つの役割、狩野派の絵師としての側面がこの二点には表れていると言えよう。
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