―5―もあったほどである。1467年、ベッサリオンは、ギリシアの文化遺産を保存するために収集した、1024冊に及ぶ貴重な蔵書を、ドージェの私設礼拝堂であるサン・マルコ大聖堂、つまりはヴェネツィア政府機関へ寄贈する決断を最終的に下す。ヴェネツィアを選択した理由として、彼自身がドージェと元老院(Senato)に宛てた手紙の中で以下のような説明をしている。すなわち、ヴェネツィアは何世紀にもわたり東方世界に開かれた国際都市であり、亡命してきたギリシア人が「第二のビザンティン帝国」のように感じるであろうこと。ヴェネツィアは絶対君主によって統治されるのではなく、「正義(giustizia)と知恵(sapienza)」に従った法によって統治され、蔵書が将来にわたり安全に保管されるであろうこと。及びこうした環境において、ギリシア人だけでなく様々な人々が、自由に古代ギリシアの英知に触れることができるであろうこと、である。このように、ベッサリオンが、ヴェネツィアにビザンティン帝国の継承者としての役割を果たすことを期待していたことが推察できる。そして1468年6月26日に蔵書の贈呈式が、多数のヴェネツィア人たちが見守る中、サンティ・アポストリ聖堂の自宅で行われ、これらの蔵書は、ローマ駐在大使のピエトロ・モロシーニを通じて正式にヴェネツィアへ譲渡された。また1463年からヴェネツィアのサンタ・マリア・デッラ・カリタ大同信会の会員となっていたベッサリオンは、死期が迫っていることを予感し、教皇特使としてフランスへ発つ前の1472年に、聖十字架とキリストの衣の断片を納めた、貴重なスタウロテカ(stauroteca)を同信会に寄進する。この聖遺物は、日頃は枢機卿の帽子などと一緒に保管されており、聖母マリアの祝祭日や特別の日にだけ展示された。フランスでの任務で消耗したベッサリオンは、1472年11月17日から18日の夜間に、ラヴェンナにある、ヴェネツィアの都市行政長官(podestà)、アントニオ・ダンドーロの家で息を引き取った。その後1480年に、ヴェネツィア政府は、命日である11月17日に、盛大な追悼式を毎年行うことを決定し、この追悼式はヴェネツィア共和国が18世紀末に滅亡するまで続けられた。以上のような経緯から、ベッサリオン礼拝室の装飾について、ヴェネツィアの政府高官や高位聖職者の間でよく知られていたことは疑いない。その中でも、エウゲニウス4世の甥で、ヴェネツィア出身のピエトロ・バルボ(後の教皇パウルス2世(在位1464−71))や、その遠縁で、ニコラウス5世の在位の時に教皇庁書記長の職にあった、枢機卿マルコ・バルボは、サンティ・アポストリ聖堂のすぐ近くのサン・マルコ宮殿(現在のパラッツォ・ヴェネツィア)に居住し、ベッサリオンと親しい関係にあった
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