鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―122―「群鶴図」を描いている。れていることから、探元がこの図巻を実見していた可能性は極めて高い。第四図(落款「黔贏探元邨々子」印章「浄徳堂」朱文円印・「探元」朱文方印)〔図10〕も葦の生えた水辺に鶴を配した典型的な組み合わせである。探元は薩摩でもこれに類似したつまりこの「押し絵画巻」は、一図目は琉球植物を取り入れた花鳥図、他四図は正統的狩野派風の作品という構成となっているのである。探元の上京中の作画活動を整理して明らかにした、京都において探元に求められた二つの役割、琉球や中国の珍しい動植物をモチーフとした絵を描くことと、江戸で学んだ探幽様式を用いて絵を描くこと。「押し絵画巻」は貼り付けられた五面の絵に、京都において探元に求められていたこの両方の要素を看取できるという意味で、非常に貴重な作例と言えよう。『上京日記』などの資料では確認されていた探元の京都での活動内容だが、それを示す具体例はごく限られていた。「中山花木図譜」がその一端を示していたが、これはどちらかと言えば植物図巻のようなもので本格的な観賞用絵画とはまた少し性格が異なる。そうした意味で「押し絵画巻」の第一図は、探元が実際に琉球の動植物をモチーフとして使用し、それを花鳥図にまとめあげていたことを証明する唯一の作例である。これを見ると狩野派の筆法で描かれた樹木に、写実的で奇妙な形をした南国の花や鳥が組み合わさって、他の狩野派絵師の作品にはない不思議な魅力が備わっていることがわかる。黒棕を描いたという禁裏衝立(〔表1〕No.2)は現存が確認できていないが、この「押し絵画巻」第一図に近い性格の絵だったのではないかと想像される。おわりに以上のように、薩摩の絵師探元は京都においてもその才能を存分に発揮し、宮廷公家層を中心とした京都の文化人からの注文に応じていた。報告者は、これまで探元の京都における作画活動は、薩摩絵師という立場から琉球や中国モチーフの絵を描き、貴族をふくむ知識人の博物学的欲求を満たしていたという側面にのみ着目していた。しかし本研究において、探元はそれだけでなく、やはり狩野派としてのアイデンティティを持ち合わせていたことが明らかになった。探元が京都で人気を博したのは、決して珍しい図を描くことができるというだけの理由ではなく、探幽様式の描線彩色の中に独特の色や形を有した異国のモチーフが融合した探元の絵が、京都の絵師には表現できない吸引力を発揮したからと結論づけることができる。

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