注探元の京都における作画活動について言及している先行研究は以下の通りである。 探元の上京中の作画活動はすでに山下廣幸氏によって整理されている。前掲注山下廣幸、2006年。本報告書に掲げる〔表1〕は山下氏の論考を参考としながら、そこに数点作画御用を追加し、また情報を拡充したものである。■前掲注拙稿。■「中山花木図譜」は複数の写本が存在している。そのうち武田科学振興財団杏雨書屋所蔵の無賛本こそが、『槐記』享保9年10月23日条の「琉球ノ物産生写ノ絵巻物」に相当する、近衛家煕の注文に応じて探元自身が描いたものであることが、近藤壮氏によって指摘されている。前掲注近藤壮、2000年。■実際に探元の作例の中に、探幽の「四季松図屏風」を参考にした「雪松図」があることが河野■『上京日記』によると享保20年3月15日、探元は訪問した中睦叟宅において自身が先年模写した董其昌の絵が床に掛かっているのを目にしている。このことから山下廣幸氏は、上京以前からも探元の名は京都で知られており、作品の依頼などがあったことも想像されるとしている。前掲注山下廣幸、2006年。この他にも、近藤壮氏が指摘されているように、『槐記』享保12年12月16日条には、程順則着賛の探元の絵が中川石見守邸での茶会で掛けられていたという記述がある。前掲注近藤壮、2000年。■前掲注山下廣幸、2006年。■作品解説『木村探元展―近世薩摩画壇の隆盛―』展図録、鹿児島市立美術館、1987年『花鳥―愛でる心、彩る技〈若冲を中心に〉』展図録、宮内庁三の丸尚蔵館、2006年―123―河野元昭「探元と江戸狩野」『木村探元展―近世薩摩画壇の隆盛―』展図録、鹿児島市立美術館、1987年永田雄次郎・山西健夫『薩摩の絵師たち かごしま文庫43』春苑堂書店、1998年近藤壮「江戸時代中期の公家文化における画家の研究―近衛家煕と「中山花木図」をめぐって―」『鹿島美術研究』第17号、2000年野口剛「絵師の僧位叙任をめぐる断章―『画工任法橋法眼年月留』の紹介をかねて―」『朱雀』13、京都文化博物館、2001年山下廣幸「木村探元日記」『黎明館調査研究報告』第17集、2004年山下廣幸「木村探元の京都における作画活動」『黎明館調査研究報告』第19集、2006年近藤壮「程順則着賛本「中山花木図」に関する一考察―(財)海洋博覧会記念公園管理財団所蔵本を中心に―」『沖縄文化研究』32号、法政大学沖縄文化研究所、2006年拙稿「渡辺始興草花図にみられる琉球植物―薩摩絵師木村探元との関係をふまえて―」『美術史』第161冊、2006年元昭氏によって指摘されている。前掲注河野元昭。
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