鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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1900年代から30年代における日中間の美術交流について―127―1901年陳師曽、日本を訪れ宏(弘)文学院、東京高等師範学校(現在の筑波大)に学ぶ(09年帰国。19年、芸術教育視察のため再来日)。1903年李毅士来日。1905年実践女学校(日本)に中国女子留学生速成師範科、工芸速成科が附設される。李叔同来日(〜11年)。黄輔周、東京美術学校西洋画科入学(のち中退)。研 究 者:東京国立近代美術館 研究員  中 村 麗 子本研究は、1900年代から1930年代に年代を絞り、美術における日中交流の諸相を詳らかにしようとするものである。とりわけ作家レベルでの交流に焦点を絞って行うこととしたい。最終的には日中作家交流の実態を、実作品により検討することを目指している。しかしさまざまな制約上、助成を受けた本年は、日中交流の有様を文献により年譜化する作業に終始することとなった。本稿では、この年譜をもとに、着目すべき種々の事象についてコメントすることとしたい。なお年譜は、紙面の制約上簡略化した(注1)。陳樹人来日、京都市立美術工芸学校入学。1906年7月、陝西省三原大学堂の教員、早崎U吉帰国。9月、岩瀧多麿、北京の芸徒学堂教員として赴任。9月、信谷友三、秋野外也、北京の工業学堂に赴任。10月、李叔同、曽延年、東京美術学校西洋画選科に入学(11年3月卒業、曽は11年4月に研究科入学)。10月、談誼孫、東京美術学校彫刻選科に入学。11月、後藤茂啓、広東省両広高等工芸学堂に赴任。高剣父、東京に留学する(約2年で帰国)。1907年

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