鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
14/543

―6―ので、ベッサリオン礼拝室はもちろんのこと、ニッコリーナ礼拝堂も実際によく見ていたに違いないであろう。4.聖堂再建時における、社会的・宗教的状況 ――結びにかえて――1453年のコンスタンティノポリス陥落後、東方世界の政情不安にともない、ギリシア人のヴェネツィア領土への移住する数が急増した。15世紀末には、ヴェネツィアのギリシア人社会は西方世界において最大となり、30人に1人がギリシア人であった。ヴェネツィア政府は、こうしたギリシア人に対して、東方帰一教会に帰属させるのではなく、従来の東方教会の典礼や聖職者の自律性を容認した。まさにベッサリオンがヴェネツィアに託したように、ヴェネツィア自身がビザンティン帝国の継承者であることを自覚し、東方世界のキリスト教徒を守護する責務を担うことになったのである。本来、サン・ジョヴァンニ・クリソストモ聖堂は、教区民のためのラテン教会であったが、15世紀から1539年頃まで、ギリシア人が東方典礼を行うことのできる場として、ヴェネツィア政府から指定された聖堂の一つであった。聖堂再建に当たり、1489年に元老院(Senato)が、ローマ駐在大使に、再建のための寄付をした者に10年の全贖宥与えるという承認を、教皇イノケンティウス8世から得るように要請したことからも、政府が再建に協力的であったことが窺われる。新たに建築された聖堂には、サン・マルコ大聖堂に見られる五つ目型プラン―中央ドームとその四隅に副ドームを戴き、四脚のピアーで支え、半円筒ヴォールトによって側廊や礼拝室を連結する―をコンパクトにした形式が採用された。サン・ジョヴァンニ・クリソストモ聖堂では、聖ヨアンネス・クリュソストモスが亡くなった日(407年9月14日)ではなく、彼の遺骸がコンスタンティノポリスの聖使徒聖堂に安置された日(438年1月27日)に、毎年、聖人を記念する祝祭が行われてきた。サン・マルコ大聖堂が聖使徒聖堂を手本にしていることを考慮すれば、コンスタンティノポリス陥落後にトルコによって破壊されてしまった、聖使徒聖堂に準拠して本聖堂を再建することは、政府、聖堂関係者、並びに東西のキリスト教徒にとって、非常に意義深いことだったに違いないであろう。《サン・ジョヴァンニ・クリソストモ祭壇画》〔図2〕と《ディレッティ祭壇画》〔図3〕が制作された16世紀初頭においても、東西教会の統一を願う思潮が依然として見られる。1507年にエルサレムに滞在し、東方のキリスト教徒と知り合う機会を得た、ヴェネツィア貴族のパウロ・ジュスティニアーニは、ピエトロ・クエリーニとと

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る