鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―133―高岡徳太郎、太田貢も出品する。1936年12月12−13日、滄浪外史画展(於上海日本人倶楽部)1938年5月、前田青邨、第1回満州国美術展審査のため新京に赴く。帰国の途上雲崗を訪れる。5月末、川端龍子と鶴田吾郎、陸軍省嘱託画家として訪中。大同、雲崗など訪れる。6月、大日本陸軍従軍画家協会設立。10月、張善W、張大千、抗日流動展覧会を開催(於重慶)。10月、張大千、晏濟元、抗日募捐画展を開催(於重慶)。10月、前田青邨雲崗石仏のスケッチ類展示(於日本美術院)。11月、柳瀬正夢、満鉄の招聘で訪中(天津、北京、大同など訪問。成果を12月に満鉄北支事務局で発表)。秋、日本の展覧会では雲崗を主題とした作品が複数あり(青邨「大同石仏」ほか)。中国では1860年頃より、西洋技術の摂取による富国強兵を目的とした洋務運動がおこった。その後94年の日清戦争を経て、日本の明治維新を範とした変法運動へと至った。こうした状況を背景として、1900年代初頭の中国では、日本への留学という現象が多数見られることとなった。美術の分野も例外ではなく、中国からの留学生を多数受け入れた。彼らの多くは帰国後、美術学校の設立といったハード面、石膏模型やモデルの使用を授業に導入するといったソフト面の双方において、美術教育に尽力した。また1910年過ぎまで、美術学校を卒業した日本人が多数、中国各地の美術学校へ赴任している。彼らはいわゆる「お雇い日本人」として現地で美術、とりわけ洋画の人材育成にあたった。このように人々が日中を行き交う中で、中国では個々の作家の留学体験を通じた美術の近代化と、美術教育システム構築がなされていったわけである。次に、別の形をとる交流の例をいくつか挙げたい。まず文人画復興の動きを背景とした交流についてである。日本においては、江戸時代からの流れにより明治初めまでは文人画は人々に愛好され、安田老山の上海訪問(1869年帰国)など、日清間で作家の交流が見られた。やがて、フェノロサによる批判等により、文人画は冷遇されることとなる。社会的に文人画への関心が再び高まりを見せはじめたのは、1911年の辛亥革命後、清朝秘蔵の中国書画が大量に日本に流入

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