鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―134―したことによってであった。こうした動向のもと、大村西崖と陳師曽の交流が行われた。西崖は作家ではないが、この時期における日中の作家達の交流を支えた人物として重要であるため、取り上げておく。1921年、当時東京美術学校教授であった大村西崖は、北京で京派の重鎮である金城の紹介により、文人画家、学者である陳師曽と知り合い、互いに互いの国で文人画の復興を目指していたことを知った。中国では当時洋画への傾倒が高まり、国画としての文人画は冷遇されていた。1901年より8年間日本に滞在した経験を持つ陳はそれに対し、文人画復興の運動を起こしていたのである。また、1913年に初めて訪れて以来、中国にはたびたび足を運んだ橋本関雪の訪中目的も中国に端を発する文人画の研究のためであった。彼は八大山人、石涛、楊州八怪の作品を研究、収集し、また著述も遺している。ところで竹内栖鳳も1920年、21年に2度にわたり訪中している。栖鳳は中国の風物を写生したほか、北京では紫禁城文華殿で中国絵画を見、収蔵家を訪問し、また金城とも親交を深めたという。栖鳳は大村西崖と時期を同じくして金城と接触しているわけであるが、その背景には、1920年を中心とした時期における、美術団体結成と展覧会活動を通じた日中作家間のつながりがあるように推察される。例えば、20年に上海で設立された中日美術協会は、会長を康有為、副会長を劉海粟、正木直彦とした日中の作家・名士を擁する組織であり、日本と中国で連合展覧会を開催したが(注2)、第1回展の開催の準備はすでに美術協会結成に先駆けて始まっており、その関係者の中に金城、栖鳳の名が見えるのである。栖鳳と金城の例にとどまらず、この展覧会の運営を通じて多数の日中作家が双方の国を訪れ、交流を重ねていた(注3)。今度は、来日した中国人作家達の日本における活動について幾つか見てみよう。例えば、1925年に上海で中華芸術大学を創設した陳抱一は、13年に初来日し、16年に東京美術学校に入学した。この時期彼はポスト印象派などの影響を受け、のちに有島生馬や中川紀元らと交友関係を結ぶこととなった。また、1932年に来日し、帝国美術学校の金原省吾のもとで学んだ傅抱石は、35年5月に銀座松坂屋で展覧会を開催した。この展覧会には横山大観や中村不折など日本の作家も訪れたことが知られている。彼らが直接交流したかどうかは不明であるものの、展覧会を通じて日本の作家達が日本留学中の中国人作家の活動に目を配っていたことが分かる。なお傅抱石の作品には、日本画からの影響が如実に見られるものが多く、その中には「写関雪意」(関雪とは橋本関雪の意)と記されたものが存在しているこ

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