鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―135―とも知られており、彼もまた、日本の作家を明確に意識していたと言える。留学時期を同じくする人々によって美術団体が結成されるケースも多々見られる。その中でも近年特に注目されているのが、1934年に東京で中華独立美術研究所として発足し、翌年広州に場所を移して成立した中華独立美術協会である。中心人物は、梁錫鴻、曽鳴、趙獣らである。会自体は、わずか2回の展覧会ののち終わりを迎えてしまったが、日本の作家との交流を通して、シュルレアリスムという当時においては最新の芸術様式を掲げて活動を繰り広げたという点で、この団体は非常に重要な意義を持つ。この会員の中には秋田義一、妹尾正彦といった日本人の名前も見られる。再度、目を中国の地に向けてみたい。1918年頃から、上海を拠点とした日本人の活動が活発になっている。1871年の日清修好条約の締結以降、日本人は上海に居住しはじめ、日露戦争、第一次大戦によって製粉、機械、紡績業などの資本が上海に相次いで進出することで居住者数が飛躍的に増大していた。この時期の上海はいわゆる「魔都」として多くの日本の文化人を引きつけた。例えば芥川龍之介、谷崎潤一郎、横光利一などはその代表的人物としてよく知られている。個展会場として年譜に頻出する「上海虹口日本人倶楽部」にある虹口とは虹口地域のことで、日清戦争以来日本人が多く住み始め、1937年の第二次上海事変以降、本格的に日本居留民の密集地帯となった場所である。当時租界にはさまざまな国の人々が住んでいたが、日本人も含め、彼らは国ごとに独立した社会を形作っていた。前述のような日本人倶楽部で行われる個展では作品が実際に現地の日本人によって購入され、作家がそれにより旅費を調達するということも行われていたようである。見るものを引きつけてやまない異国情緒あふれる風物と日本人コミュニティの内部に用意された作品発表の場、こうした環境のもと、作家達はどのような日中交流を成し得たであろうか。ここで、こうした日本居留地と外界とをつなぐ大きな役割を担った内山書店についても少し触れておきたい。内山書店は内山完造夫妻が1917年に上海の北四川路に開いた書店で、やがて吉野作造、谷崎潤一郎、賀川豊彦や郭沫若、田漢など日中知識人の交流の場へと発展していった。そして27年頃、書店を訪ねてきたのが魯迅である。彼は20代の大半を日本で留学生として過ごした経験を持ち、その経験を生かしてさまざまな国の芸術を中国に紹介した。彼は内山書店が取り扱う多数の美術書を購入しており、29年には内山書店で購入した板垣鷹穂『近代美術史潮論』を翻訳、刊行した。さらに31年には、完造の弟・内山嘉吉を講師に迎え、中国の青年達に版画講習会を開催した。この活動はやがて中国新興木刻運動へと結実していくこととなった。

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