注年譜は鶴田武良編『中国近代美術大事年表』(和泉市久保惣記念美術館、1997年)を中心に筆者の管見による文献資料を典拠として加筆したものである。なお複数の文献間での事実関係の齟齬については、事実調査中のものもあえて掲載している。 3回まで中国と日本で展覧会を開催したのちは、26年に発足した東方絵画協会が展覧会の開催■この時期の日中作家の交流を示す団体には、23年に大村西崖、呉昌碩らによって設立された西―136―1930年代からの日中間の美術の様相は、政治・軍事と密接な関係を持ちながら展開していく。1931年、満州事変が起こり、翌年満州国が建設された。官設展覧会である満州国美術展の開催ほか、この地で繰り広げられた美術活動には数多くの日本人作家が関係している。彼らは現地に赴いた際に、北京など中国の都市も訪れている。1937年の日中戦争以降、従軍の関係等で訪中する日本の作家はおびただしい数にのぼることとなる。そこでは、戦線の様子を描いたいわゆる戦争記録画だけでなく、現地の風物も数多く描かれた。が、こうした状況下での作家の対象物への眼差しは、日本が支配地域を拡大していこうとする動きと呼応して、支配者としての性格を帯びてゆく。従軍という外部的な契機による訪中、そして抗日という状況下では、現地で日中の作家が交流し得たとは考え難い。以上、簡単ながら日中美術交流に関する事象をいくつか取り上げ、所見を述べてきた。今後は、ここで触れなかったものも含め、各事象について、具体的な史実を掘り起こしながら実作品を精査することを目指すが、その作業に着手するにあたっての展望を述べて本稿の結びとしたい。文化大革命などにより失われた作品が多いこともあり、現在中国では、当時の資料および作品を見つけることは大変な困難をともなう。現地の研究者にとっても状況は同様で、広州・広東美術館の蔡涛氏によれば、作品ほか仔細な資料を新たに発見、拡充していくための試みとして、関連する企画展示を開催し、それを呼び水として、作家の遺族など関係者や所蔵家から新たな情報を募ることが行われているという。このような状況下で、本研究をさらに推し進めるためには相当の時間を要することとなろう。また、中国の研究者との共同研究の必要性も大きいと思われる。を引き継いだ。湖有美書画社などもある。
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