―138―れた美術品とそれに対する同時代評価の分析である。調査に当たった公文書館の資料の多くが1930年代後半以降のものであったことなどから、本調査で得られた結果はアメリカにおける山中商会の商いの全容を明らかにするものではなかった。しかし、先行する研究が明らかにしてこなかった、1930年代後半から太平洋戦争が終結する前年の昭和19年(1944)の間の山中商会の活動及び、日米交戦下のニューヨークにおける東アジア美術の受容の一端を明らかにすることができた。本論文では、この画期的な新知見について報告する。まず、1930年代後半から太平洋戦争終結までのアメリカにおける東アジア美術の受容に関する先行研究は、非常に乏しいということを確認したい。太平洋戦争の直前または交戦中のアメリカにおける東アジアに対する認識などについての研究は、日系人の強制収容を含めた人種への偏見やプロパガンダの手法を切り口とし、多くの研究者がこれに取り組んでいる。一方、同時期の東アジア美術受容に関しては、前者のような活発さを見ることはできない。外交史という観点から19世紀から1980年代までのアメリカへの東アジア美術品移動を追跡したウォレン・I・コーエンもボストン美術館の状況と昭和18年(1943)の中国美術の展覧会に若干触れてはいるものの、「敵の攻撃を恐れて、太平洋沿岸の主な美術館は、貴重な作品の一部を安全な保管庫へ移した。また、大衆の見さかいのない行動を恐れて、日本美術は美術館の壁や棚から下ろされた」とするのみで、具体的な記述は行っていない(注3)。こうした例証の乏しさを補うためにはこの時期の東アジア美術取引を実証的に解明することが必要とされるが、今回の調査結果はこれに十分に応えるものであった。山中商会は明治27年(1894)に山中定次郎により創始された新古美術品輸出商で、言わば東アジア美術の総合商社のような活動を行っていた。同社は定次郎の強いリーダーシップの下、旧来から骨董に詳しかった一族に支えられ発展した会社であり、経営に関する権限は山中家の人間が握っていたと考えられる。しかし、昭和11年(1936)の定次郎の死去以降、こうした体制に変化が訪れた。昭和13年(1938)1月に、ニューヨーク、ボストン及びシカゴ支店は協定書を交わし、一種の合議制の下での強い協力体制を築くことを選択したのである(注4)。その取り決めは多岐に亘るが、注目すべきは、新たに発注する製品を含めた共同仕入れの徹底や、商品の売り値の統一といった支店の均一化もしくは没個性化を予兆させる項目が多数見られることであろう。こうした処置は在庫を抱えるという危険性の回避や、共同歩調で社全体の利益を目指すという社訓を遵守しようとする姿勢の表れと見ることも出来るが、弊害として独自色及び支店間の競争が衰退する可能性がある。また、この協定書には日本本社の
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