―139―役割は殆んど記されておらず、これはアメリカ側と日本側の乖離を示していると言えるだろう。さて、こうした体制の変化を迎えたものの、山中商会ニューヨーク支店では従来通り東アジアの美術品に加え、美術加工品とも呼ばれた工芸品類などが商われていた。〔図1〕はニューヨーク支店が発行した商品カタログの一頁である。「中国装飾品」と銘打たれた紙面には、絹布に描かれた恐らく明代の肖像画や、装飾用の翡翠のインク壺、繻子地のシェードとクリスタルの胴部、銀で鍍金された青銅の底部の電気スタンドなどが掲載されているが、恐らく後者二つは山中商会もしくは取引会社により製作されたものである。今回の調査では、クレア・マクレディーやフローレンス・ベイリーなどの工芸品製作に携わった山中のアメリカ人社員の存在も判明している(注5)。また、同商会では真珠などを用いた装身具も扱っていた〔図2〕。前出の協定書によれば、御木本真珠の商品も山中の店頭に並んでいたようである。こうした店舗での商いに加え、山中商会ニューヨーク支店は1930年代後半においても、メトロポリタン美術館やボストン美術館などの研究機関と密接な関係を保っていた。前者との関係は主に学芸員アラン・プリーストや、研究書売買に関しては同館図書室司書との間のものであり、プリーストと山中の付き合いは昭和10年(1935)の2月から4月にかけて開催された「能衣装展Japanese Costume. An Exhibition of N-oRobes and Buddhist Vestments」を契機により深いものになったと思われる。この展覧会には国際文化振興会が関与し、日米のコレクターが所蔵する能や狂言の衣装、打掛、袈裟などおよそ49点が展示された(注6)。山中商会は同振興会からその事務を展覧会の前年に委託されているが、プリーストが作品の借用を求めた日本方のコレクターに山中と縁の深い人々の名が挙がっていることを考えると、山中が果たした役割が事務以上のものであったことは想像に難くない。一方、山中商会はボストン美術館に対し東アジア美術商としての側面だけでなく、西洋美術の画商としての面も見せていた。昭和14年(1939)、ボストン美術館より同商会に、コローの作品と同じくミレーの作品の売却先を探している旨が伝えられ、山中は以前にも西洋絵画に関する取引を行っていたことや、これらの売却の可能性が高いと判断したためかこれを引き受け、最終的に二つの作品が山中商会の依頼人に売却された〔図3、4〕。この依頼人の詳細は不明であるが、売価の交渉において円とドルの交換レートが取り上げられていることから、日本人ではないかと推察出来る(注7)。山中商会は日本の美術界に精通していたものの、西洋美術の取引に関する表向きの実績は貧弱であった。こうした会社にボストン美術館側が交渉権を与えたことは、
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