―140―[中略]現在日本のものとして何かを広告することの妥当性には疑問がありますし、彼らの間に強い信頼関係があった証左とも言えるだろう。このように堅実な商いをしていた山中商会であるが、社会情勢と無縁ではいられなかった。一部の同業者が帰国するのを見届けつつ、彼らはアメリカでの営業を続行したが、昭和16年(1941)8月に入ると7月の在米日本資産の凍結を受け、社内でアメリカからの撤退が示唆されるようになった。しかし、8月9日にニューヨーク支店は日本の本社に営業継続の意思を伝えた。ニューヨーク支店を含めたアメリカ側は他の邦人企業の撤退を踏まえた上でこの決定を下しているようだが、恐らく山中の商売の大部分がアメリカに集中していたことや多数の取引先が存在していたこと、アメリカ人従業員を多く雇用していたことが、その要因となったのであろう(注8)。実際にニューヨーク支店は70社近くの現地の業者と取引をし、年間2万5000ドルもの品物を彼らから仕入れていた。また、アメリカ側は最悪の場合は全ての支店の閉鎖もやむを得ないとしていたが、その要件として経営の困難を挙げていることを顧慮すると、昭和16年(1941)8月時点の商売の状況は撤退を覚悟させるような低調なものではなかったのかもしれない。しかし、日米の政治的関係の悪化を受け、山中への態度を硬化させる顧客も現れ出す。シカゴ支店と提携し定期的に展覧会を開催していた百貨店の経営陣は「私たちは展覧会を中国美術のものとして宣伝すること、可能な限り展覧会に対し損害を与えるかもしれない名前を避けることが、適当もしくは如才ないであろうと感じています。このことは山中の名前にさえあてはまるかもしれません」と書簡に記している(注9)。山中商会のアメリカ支店の社員たちは平常通りの営業を続けようと努力していたが、英国においてロイヤル・ワラントさえ授与された「山中」という名前を忌避されたことは、彼らに少なからぬ衝撃を与えたことだろう。こうした中、山中商会は太平洋戦争の開戦を迎えた。同商会が邦人企業であったことなどから即座に営業停止の命令が出されたようだが、昭和17年(1942)1月にはアメリカ政府敵性外国人財産管理局下での営業が再開された。これに際し、山中には政府の職員が派遣され、彼らと日本人幹部社員たちと合議における決定を受け、日本人及びアメリカ人の従業員が業務に当たったようである。この頃の政府の営業方針について、在庫の早期の売却を行うことであったという証言もあるが(注10)、従業員の労働条件や給料体系について新たな取り決めがなされたことを鑑みると、政府の狙いとして、在庫の売却の加え、従業員の雇用確保があったのではないかと考えられる。ニューヨーク支店には複数のアメリカ人従業員がいたが、彼らの多くは勤続年数が長
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