鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―141―く、比較的高齢であった。こうした従業員に対する一種の温情が働いたのではないだろうか。在庫商品の販売にあたって、驚くべきことに、再開した山中商会の店舗には顧客が殺到した。その様子をシカゴ支店長は幾度となく店舗への顧客の入場制限をしたと伝えているが(注11)、こうした反応はシカゴのみに起こった反応ではなく、ボストンやニューヨークでも見られた。こうして売上的には順調ともいえる支店の再開を果たした山中商会はその後従来の顧客たちに加え、議員や軍関係の仕事を受注していた企業の重役などを相手に商いを行った。こうした動きと並行して、会社を清算するための準備は着々と整えられていた。山中商会の殆どの商品は、この後、昭和18年(1943)に発行されたカタログと昭和19年(1944)の各支店閉鎖後にパーク=バーネット・ギャラリーで開催された計12回のオークションなどで金銭に換えられている。前者は同年に大規模なオークションの記録が見られないことや、序文において但し書きがあることから、一種の通信販売のために制作されたカタログと考えられる〔図5〕。1683点の作品に関する文字もしくは画像情報が掲載されており、その多くは各時代の中国美術品であるが、屏風や浮世絵などの日本美術や朝鮮の石塔、カンボジアの仏頭などもあり、必ずしも中国のもののみが扱われたのではない。このカタログは2000部程度が無料で、15000部程度が廉価で頒布された。これに対してはアメリカ全土から問い合わせの手紙が届いており、このことは東アジア美術の愛好家の層が厚かったことを裏付ける証左と言えるだろう。この翌年、太平洋戦争終結以前の山中商会の最後の活動とも言えるオークションがパーク=バーネット・ギャラリーで開催された。これらのオークションは5月以降順次開催されたが、それに先立ちボストン支店とシカゴ支店が、4月にはニューヨーク支店が閉鎖されており、各支店の在庫が出品されたものと考えられる。これらの多数を占めていたのは青銅器、陶器、仏像などの中国の古美術品であったが、李朝の仏画や日本の屏風、美術加工品であった電気スタンドなども散見される。これらの商品には売れ残りといった性質のものも含まれていたが、ニューヨーク市民はこのオークションを熱烈に歓迎し、およそ46万ドルの売り上げを記録して山中商会は解体されていった。以上のように、今回の調査により1930年代後半から太平洋戦争終結までの山中商会ニューヨーク支店の活動と、彼らの商品がアメリカ都市社会に受け入れられていった過程が明らかにされた。これに加え、日本を含めた東アジア美術は博物館に止められた存在ではなく、人々の需要を受け流通しており、アメリカ、特に大西洋沿岸の地域

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