―149―成となっている。以上のように、50帖の和歌御屏風が確認できた。確認できる屏風は、度毎にみれば不足しているものがあるが、明和元年度から嘉永元年度までの5度の大嘗会で、すべてが同じく悠紀主基各6帖(和歌各18首)で計12帖(和歌36首)の和歌御屏風が調進されたのである。この形式は、江戸期において第113代東山天皇の貞享4年(1687)度から中断した大嘗会が再興される第115代桜町天皇の元文3年(1738)度大嘗会ならびに、第116代桃園天皇の寛延元年(1748)度で悠紀主基の両斎国から詠進された御屏風和歌が各18首であったものと一致する。八木意知男氏によれば、元文3年度大嘗会和歌が永享2年(1430)度大嘗会和歌の役割と精神を継承したものであることをふまえ、寛延元年度の御屏風和歌が、地名、題詩ともに元文3年度のものと同一であることから、意識的に継承することによって、後世にそのかたちを引き継ごうとしたものとされている(注10)。屏風現品の所在は確認できないが、元文3年度の和歌御屏風の様相は、当該度の悠紀方和歌の作者、烏丸光栄(1689〜1748)の詳細な記録「大嘗会和歌詠進日記」(注11)によって知ることができる。そのなかで、「大嘗会悠紀主基御屏風 高四尺 塗縁共 六枚…右悠紀・主基各六帖…」などと記されている。また、寛延元年度の屏風もまた、和歌と同じく元文3年度のものを踏襲したとみるべきで、これまでみた和歌御屏風と同様に悠紀主基各6帖(和歌各18首)で計12帖(和歌36首)の和歌御屏風が調進されたと考えることができる。以上のように元文3年度(注12)から幕末、嘉永元年度まで7度の大嘗会における和歌御屏風は、御屏風和歌の形式上の継続性を考慮すれば、屏風の形式も江戸期を通して前例(元文3年度)の踏襲がはかられたとみることができよう。しかし、文政元年度でみたように霞の描写が金泥引きから群青によるものに変更されているなど、絵画表現における変化が、それぞれの大嘗会における和歌御屏風において確認できるので、その変化の意義を考えるにあたっては、当該度前後の画壇の状況など、踏まえるべき点は多い。②本文御屏風について五尺屏風ともいわれる本文御屏風は、10帖確認できた。本文御屏風は、時代が下って、通例、悠紀主基各4帖が用意された。したがって、ここにあるのは、少なくとも二度以上の大嘗会にかかわる本文御屏風となるが、これら屏風がどの大嘗会に制作さ
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