―150―れたのか、現在のところ確認できる文献を見出すことはできなかった。屏風の現状をみると、大縁が二種に分類できるので、二度分の本文御屏風とみなすことができよう。各帖の色紙形に記された本文の多くは、『礼記』月令と『芸文類聚』に見出される字句がみられる。これは、八木意知男氏が例示された天明7年度の本文と共通する(注13)。さらに同氏は京都国立博物館所蔵の天明7年度の本文御屏風を写真掲載して紹介されている。それらは、1帖の屏風に3条の本文の色紙形が貼られ、本文1条に概ね2扇分の画面を使って、その内容を絵画化している。東京国立博物館所在の本文御屏風とも共通する。画面は紙本着色で、群青によるすやり霞がその大部分を占め、各帖の本文各条の主題がモチーフとして描写される。これらは、先にみた和歌御屏風では、文政元年度からみられた表現であった。敷衍すれば、これらの本文御屏風は、文政元年度、嘉永元年度のものと想定することもできよう。また、「立春條風…」の本文をもつ本文御屏風〔図6〕では、水辺の風景が一画面に無理なく連結するよう表現されている。しかし、第2首、第3首は直截水景色には結びつかないものである。つまり本文内容にかかわらず、背景描写がゆるやかに繋がっているともいえる。この表現は、文政元年度の和歌御屏風の悠紀方丙帖に共通する。ここでは、俄かに歴代の本文御屏風であるという断定を避け、さらに史料の博捜に努め、あわせ、諸賢の教示を俟ちたいと思う。③屏風絵の筆者これら大嘗会屏風には、落款印章など作者名の表記は一切ない。したがって、文献上の確認が必要となる。画人伝などの近代以降にまとめられた諸書、並びにこれまでの諸研究をまとめると、大嘗会屏風を描いた絵師として、次の名をあげることができる(注14)。明和元年度と明和8年度は土佐光貞(1738〜1806)、天明7年度は、土佐光貞と土佐光時(1765〜1819)、文政元年度は土佐光時・土佐光孚(1780〜1852)、嘉永元年度は土佐光孚とされる。光貞は、土佐光芳の二男で土佐分家を開いたが、明和元年度大嘗会の記録を基にした朝儀の記録「大嘗会図式 下」に、「御屏風」と図示された悠紀主基の屏風の傍らに「調進 土佐内匠大允藤原光貞」とあり(注15)、表紙に「画所預正五位下土佐守藤原光貞」とある『家伝写 土佐』(東京芸術大学附属図書館蔵)には、「明和元年大嘗会悠紀主基和歌御屏風調進」とあり、さらに『扶桑名画伝』には、「土佐守光貞朝臣(中略)同(天明)七年大嘗会悠紀主基御本文御屏風御再興ニ付調進」とある。そ
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