(1734〜64)の項に「寛延元年大嘗会悠紀主基御屏風ヲ画ク」とある。―151―れぞれの大嘗会で、本文御屏風と和歌御屏風を土佐家内で分担して制作していたことがうかがえる。従前の大嘗会に関してみれば、『名印部類』の土佐系図には、光貞の兄、土佐光淳さらに、その前の元文3年度は、和歌の作者烏丸光栄の「大嘗会和歌詠進日記」の元文3年9月15日条に(注16)、「絵所土佐大蔵少輔光芳来、(中略)永徳大祀、光芳先祖大蔵少輔光茂画御屏風并調進之、依此例、今度画調進共光芳奉之」とあり、永徳3年(弘和3年・1383)度の第100代後小松天皇の大嘗会において、土佐光茂が大嘗会屏風を描いたとし、その先例をもって、光淳、光貞の父土佐光芳(1700〜72)が担当することになったとする。その光芳が江戸時代において、はじめて大嘗会屏風を揮毫したこととなり、以来、江戸時代を通じ幕末まで土佐家の絵師(絵所預)が大嘗会屏風を描いたこととなる。まとめ本調査研究によって、大嘗会における和歌御屏風については、明和元年度の大嘗会から嘉永元年度までの連続した作品が一部を除き、明らかにされることとなった。屏風の員数など形式面においては、ほぼ前例の踏襲がなされたとみえる。一方で本文御屏風については、その具体的な様相の一部が示されたが、どの大嘗会に制作されたかなど、不明な点が多く残った。また、屏風絵の制作者については、度毎の和歌御屏風と本文御屏風のそれぞれの分担者を明確に出来ないものもあり、今後の課題としたい。東京国立博物館に所在する大嘗会屏風の絵画表現上で特筆すべきは、金泥引きであった画面装飾が、文政元年度のものから、群青のすやり霞によって画面を文節しつつ、遠近感などを生みだす表現方法となったことである。その変更の理由などは、明らかにできないが、当代のほかの絵画作品の流れとどのように関連したか検討すべきであろう。また、和歌御屏風は「和絵(やまとえ)」屏風、本文御屏風は「唐絵」屏風ともよばれていた。しかし、ここでみた屏風においては色彩表現や樹木、土坡などの情景描写など、描写技法の点で、違いはほぼないといってよい。人物が中国人物として描かれているのか、あるいは日本の公卿、農夫の姿が描かれているのかという違いのみが確認できる。大嘗会屏風にいう「唐絵」と「和絵」は、技法上の区別はないともいえる(注17)。また、和歌御屏風では、題詩に示される地名が異なっても、情景描写に
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