―158―一方、『東京ゲストブック』には、1906年から14年にかけて東京赤坂のハイド宅を訪れた600人以上のサインがあり、重複している人物を除いても400人を超える人物のサインが記載されている。その中には日本人も30数人含まれている。現在名前が判明している著名な日本人としては、新渡戸稲造(1862−1933)、狩野友信(1843−1912)、執行弘道(1853−1927)・米子(生没年不詳)夫妻、珍田いわ(1867−?)(注3)らである。滞日外国人のほか、旅行の途中で立ち寄る外国人、主としてアメリカ在住者のサインが多い。ハイドの版画制作の過程1912年から14年にかけてハイドが制作した版画は、直近に旅行したメキシコを主題とした作品、日本の子供を主題とした作品、中国の子供を主題とした作品に大別される。版画制作については、木版画の摺り師とのやりとりやエッチングの制作過程が記されている。1912年9月4日、サンフランシスコ発ホノルル経由のアメリカの蒸気船「中国」で、ハイドは友人の妹ガートルード・エマーソン(1893−1982)と共に横浜に上陸する(注4)。ハイドの最後の日本長期滞在の始まりである。ハイドは1910年6月25日、同じアメリカの蒸気船「中国」でサンフランシスコに帰国し、翌年癌の手術を受け、1911年冬から12年春にかけて長期のメキシコ旅行を経ての来日であった。不在の間に、日本の年号は明治から大正に変わっていた。東京赤坂氷川町8番地の自宅に戻ったハイドは、早速、版画の制作を手がけ、精力的に活動を開始している。来日後6日目にあたる9月9日付の書簡では、自宅2階で版画の印刷をするために、3人の摺り師が働いている様子が記載されている。その内の1人はハイドの摺り師として名前が判明し、写真も残っている村田ショウジロウである。ハイドは、他の1人の摺り師の働きぶりに不満を述べ、メキシコ旅行を主題とした《ウサギにえさをやりながら》が大量に無駄になったことを嘆いている。彼女は怒りを爆発させるのを抑えて、「しっかり見ていなかった私の過ちだわ」とどうにか自分を納得させようとしている。1912年10月9日付の書簡では、手間を省こうとする摺り師と妥協を許さないハイドのやりとりが次のように記されている。最後の重ね摺りの段階になった。2人で一つの作品に従事して、「出来ない」と言うが、私は「出来る」と言った。彼らは、「面倒でとても大変だ」と言うが、「そ
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