―159―んなことは問題でない」と答えた。彼らは取りかかった。…私の最初の風景、「気に入ったわ」と私は平然として言う。村田さんは、「みんな気に入りますよ」と答える。次の色で失敗しなければ。この段階はいつも危ない。そして、書簡の中で木版画制作についての記述が増えてくるのは、帰国近くの1914年7月、軽井沢の滞在時である。ハイドは、軽井沢にある友人の別荘に摺り師たちを呼び、木版画制作に最後の追込みをかける。摺り師は日曜日休みのようだ。彼らは確かに、ここでよく休む。私は、今週は夕食1回、昼食2回、そして多くのお茶のお誘いを彼らのために断った。彼らが行ってしまうまでずっと、そうしたことは何もしない。…私は一時に30分以上彼らから離れないわけだから、私がこれらの版画を作ったと間違いなく主張することができると思う。「日本人はあなたがするような入念な努力をしない」と村田さんは言う。私は彼らが出発した時に、絞りきったオレンジのようにならないよう一生懸命やってみるつもりだ。私たちは7時30分に始める(注5)。このように、摺り師は、常にハイドの監視下で仕事に従事していたことがわかる。浮世絵の分業化した方法を取り入れて作品を制作していたハイドにとって、日本を去ることは木版画の制作の終結となるかもしれないがゆえに、彼女のあせりや制作に対する厳しさが行間から察せられる。一方、1912−13年の2年間は、ハイドにとって、エッチングとの格闘の日々でもあった。1890年代後半、来日以前からハイドはエッチングを試みていたが、この時期、バーナード・リーチ(1887−1979)の協力を得て、エッチング制作に没頭する。リーチは1909年に来日、エッチング教室を翌年まで開いていた(注6)が、ハイドのエッチング制作を手伝うことになるのは、1912年10月頃からである。同年10月15日付の書簡では、ハイドがリーチに、「エッチングの弟子をとらないか」と尋ねたのだが、「弟子はとらない。一緒に仕事をしよう」と誘われ、月曜日にハイドの家に来る約束となったことが記されている。そうして始まった2人の共同作業だが、実際はリーチがアドバイスをしながら、ハイドの制作を手伝うという形で、互いの家を訪問しながら行われた。リーチがブラングウィン(1867−1956)の多色刷り版画の制作方法をハイドに教示したりすることもあった(注7)。しかし、この時期、リーチの関心はエッチングから陶芸へ移りつつあった。
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