鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―160―(注9)。ハイドは、リーチのアドバイスを受けながら、エッチングと悪戦苦闘を続けリーチは、私が訪ねるのを少しうんざり気味の様子だった。というのは、彼は陶器の製作の真っ最中だったから。しかし、日がたつにつれ、彼は興味を示してくれた。私たちは、多色刷りの版でさらなる困難にぶつかった。彼が廊下を歩きながら、「これは、ただの準備段階の小競り合いさ。うまくいくよ。もっと手伝う時間をとれるよ」と言ってくれたことに私は喜んだ(注8)。リーチがますます陶芸に夢中になっていく状況を妻のミュリエルも、英国人の友人たちも快く思わず、リードを陶器から離すよう、エッチングに再び興味を示すようハイドが頼まれることもあった。結局、時間的な問題と経済的な問題も絡まってであろうが、リーチがハイドから授業料を収受し、エッチングを教えるという形態に変わるる。とくに最終段階のエッチングプレスの操作には苦労したようである。すべて私自身で手がけるエッチングは、まったくのところいつも不必要なしくじりで何かしらだめになる。この小さなメキシコの少年(注10)は、白黒の版に関する限り、ようやく危機を切り抜けた。カラー版はまだ、気を抜けない。しかし、ひどい《アルフォンソとコンチッタ》!もう3回も試みているのに。それらを征するには、べとべとになりながらさらに3回やらなければ(注11)。それから大きなアクアチントの日本のもの《渡し舟で》(注12)の仕事にとりかかる。そのアクアチントはどうだったか。全てうまくいった。酸、デッサン、腐食しないように覆うことなど。でも神はそのことをのろった。松脂が1、2箇所で多く溶けすぎてしまったにちがいない。しかし修復が出来ないとは思えない。でも、いつも機械のところで挫折するのが大変つらい(注13)。このように、1912年から13年にかけて、帰国後の制作活動の準備が念頭にあったのか、ハイドのエッチング制作は熱がこもり、試行錯誤を繰り返しながら修行を積んでいく。しかし、1914年になると、引越し準備や妹ハリーの来日に伴う旅行、その隙をぬって在日外国人のクラブでメキシコについての講演をするなど多忙な日々を過ごす中、エッチングの制作についての記載はほとんどなくなる。創作活動の面では、1914年は、限られた日本滞在を有効に使おうと木版画制作に奮闘することになる。

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