―161―主題・構図書簡では、日本を主題とした作品数点の図案作成について、ハイドはいくつかの記録を残している。ハイドが写真を資料として図案を作成していたことは、類似した構図の観光写真との比較によって、美術史家ジュリア・ミーチがすでに指摘している(注14)。今回の調査により、亀戸の太鼓橋を主題とした作品については、それを裏付ける資料が見つかった。まず、カリフォルニア歴史協会が所蔵しているハイド所有の写真プリントの中に、亀戸の観光写真が含まれていた。それは、ミーチが提示した写真と同じ構図のものである。ミーチは、1901年頃のハイドの水彩画について言及しているが、1914年の版権(注15)となっている《亀戸天神の太鼓橋》〔図3〕で、ハイドは再び太鼓橋を描いている。1913年5月2日と3日付の書簡には、前述のプリントとは違った構図の亀戸の観光写真〔図2〕が2枚添付されていた。5月2日付の書簡では「藤の写真。今がその時期。私は見に行ってないけれど。子供の日、息子をたたえてあらゆる家で、大きな鯉が空に泳いでいる」との記載がある。さらに、一緒に投函されたと思われる翌日付の書簡でも、「知らない人のために。これらの青写真は有名な東京の亀戸。最初のものは、太鼓橋。金魚でいっぱいの池に藤棚が仕立てられている。祭日ののぼりは楽しい。休日で訪れたたくさんの人々が小さな橋に立ち、花を見ている」と記されている。続く5月7日や15日付の書簡にも亀戸に出かけたという記載はなく、実際にスケッチへ出かけることなしに写真から太鼓橋のみを選び取り、子供たちを配置して、《亀戸天神の太鼓橋》の下絵を考えたようである。ところが、写真を参考にしたと思われるお花見の光景については、事情は少し違っている。1913年4月3日の書簡には、次のような記述がある。上野へ桜見。すばらしかった。帰途のたそがれ時は、もっと優雅だった。思うに、最初の桜の花の色は表現することも描くこともできない。世界で最もやさしい色。灰色の寺院の屋根を背景にしてきゃしゃなこと。石の灯篭の連なり、大きな石の鳥居を通しての眺め。もう一度行きたい。もっと写真を撮りたい。そして、桜の美しさに魅了されたハイドは、4月8日付の書簡で、再度出かけて写真を撮りに行きたいが、友人が他の人と花見に出かけてしまい外出しなかったことを報告している。その記述の横の欄に、ハイドが前回の花見で自分で撮影したと思われる写真〔図4〕が貼り付けられている。ハイドの作品《東京の桜の季節》〔図5〕の
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