注書簡、『東京ゲストブック』の両資料共、資料の1部分のコピーしか許可されていなかったが、カリフォルニア歴史協会の図書館・公文書館長メアリー・モルガンティの協力を得て、このたびマイクロフィルムを作成し、全資料を入手することが可能となった。 ジュリア・ミーチは、「異国趣味としての東洋の再発見」(『青い目の浮世絵師たち:アメリカのジャポニスム展』世田谷美術館、1990年、252−253頁)脚注でハイドの1913年7月7日付書簡を紹介している。―163―日付書簡でも、「通りを表現することをあきらめなければ」と書いている。日本の作品の集大成としての意気込みが感じられ、大作である《東京の元旦》の構図決定に、試行錯誤を重ねたようである。結びにかえてこれまでハイドの日本滞在後期の創作活動を辿ってきたが、前期については、画商との手紙(注18)を除き、雑誌や新聞記事以外の書簡や記録の所在は現在のところ明らかではない。メイソンの編集したハイドの唯一のまとまったカタログに掲載されている作品一覧によると、1912年から14年にかけては作品数が多く、日本滞在後期は、ハイドの創作意欲が旺盛であった時期にあたる。この時期は、ハイドにとって、日本滞在を切り上げ締めくくるという側面と、帰国後に備えた準備期間という側面を持っている。本稿で紹介した書簡に見える創作に対する焦燥感と意気込みの激しさから、それが読み取れる。また、離日を目前に、主題のみならず技法も木版画からエッチングへの回帰を試みていた。本資料は、ハイドの代表作と言える日本を基調とした作品の集大成と次の創作活動の方向性を模索している転換期、つまり彼女の創作活動において重要な時期に記されている。そして、日常生活の報告の合間には、ハイドがたどりついた日本観が示唆されているように思われる。カリフォルニア歴史協会には、ハイドの書簡、ゲストブック以外に、彼女の所蔵していた写真、小さなスケッチ集、出納帳などが所蔵されており、現在その整理を進めている。今回の 鹿島美術財団の助成金により入手可能となったそうした資料から、ハイドを中心に据えたジャポニスムを探るため、作品の制作という側面を出発点に、交流関係や作品の流通を含めた調査を継続していく予定である。ハイドは、日本滞在時、滞日経験のあるアメリカのジャポニスムの担い手である女性たちとの交流も盛んであった。今後、ハイドの作品の制作、流通、交流を通して、20世紀初頭のアメリカ人女性の抱いた日本観、ジャポニスムを検証していきたいと考えている。
元のページ ../index.html#171