鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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3棟方志功の初期油彩画について―167―研 究 者:宮城県美術館 学芸員  三 上 満 良はじめに棟方志功は、戦後の日本において大衆的な知名度をもった画家のひとりである。ゴッホの油彩画《ひまわり》に衝撃をうけて洋画家をこころざしたものの、目標にしていた帝展で作品が認められず、油彩から木版に転向して国際的な評価を受ける版画家になったという生涯が広く知られている。実際、自叙伝『板極道』(注1)の中で「目が弱い私は、モデルの身体の線も見えて来ないし、…先生もいないし、存分に材料を買う資力ももっていない」という理由で油彩画を諦めたと告白しているのである。昭和5年(1930)頃からは版画が発表の中心になるが、棟方は生涯油絵を捨てることはなかった。版画制作と並行しながら晩年まで精力的に油彩の筆をとり続けている。しかし、土方定一が「この作家が油絵を描くと、梅原芸術の下手ものみたいになってくるが、木版画にとどまる限り、独自な位置を保ちつづける。」(注2)と語るように、これまで、油彩画は評価の外に置かれてきた。木版画に転ずる以前の油彩画は習作とみなされ、後年の油彩画は版画家の余技とみなされてきたのである。洋画家の素描の数に匹敵するほど膨大な数が遺された油彩画の存在は、棟方にとってこの技法が特別な表現だったことを意味している。早い時期から東洋の文化風土の上に成立する「日本の油絵」について言及しており、油彩という技法と画材の特質を自覚していたこともうかがえる。版画の業績の陰に隠れてしまっているが、この画家の油彩は洋画史に類例のない個性的な様式をもっている。本研究では、棟方様式が形成されるまでの戦前期の油彩画に着目し、独学で「日本の油絵」を開拓する道程を探ってみた。1 油彩画との出会い棟方は、大正10年(1921)の7月頃、青森在住の画家小野忠明から雑誌『白樺』(同年2月号)に掲載されていたゴッホの《ひまわり》の原色図版を見せられて、油彩表現に衝き動かされる。ゴッホの図版の切り抜きだけでなく、小野から画材を譲り受けたということまで、棟方の自叙伝の記述や小野の回顧(注3)が一致しているので、この年の後半から油彩画を描きはじめたとみてよいだろう。《ひまわり》とは複製印刷による出会いだが、青森の教会で開かれた「木谷末太郎展」で、初めて油彩画作品に接したときの記憶を棟方は次のように語っている。

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