―168―(注4)と回顧している。つまり、すでに油彩画というものを見てはいたが、ゴッホ「洋画という妙な絵がどういう仕掛けで出来るのか驚嘆したのでした。ナンともいいようのないほどのギラギラ輝いた線が織りなす不思議な絵の具の配列の妙味のふるまいの、ただならない姿に、わたしは仰天してしまいました。」(『板極道』)木谷末太郎という画家とこの展覧会に関しては、記録が見いだせない。油彩を描いていた小野に出会う以前と推測されるが、棟方一流の表現を割引いても、最初の油絵体験の感動の大きさがうかがわれる。「洋画という妙な絵」の「ギラギラ輝いた線」の印象が後年まで鮮明な記憶として残っていたのは確かだろう。一方で、この時期から一緒に創作活動を行っていた画家の松木満史は、大正10年2月に青森市の松木屋デパート開催された「山上喜司展」を、「これが正規の油絵を見るはじめでありました。恐らく棟方にとっても始(ママ)めてであったかと思います」の作品図版に魅了されて自分でも描きたくなり、運よく画材が入手できて油彩画をはじめた、というのが棟方の出発点であろうと想像される。小野忠明によると、それまでの棟方は、木炭紙を綴った手製のスケッチブックに4Bの鉛筆で「少女雑誌の挿絵でも真似たような」絵を描いたり、水彩で静物画を描いており、油彩画をはじめてからは、風景画ばかりになったという(『棟方志功全集』)。棟方は、美術学校や画塾で専門的な美術教育を受けておらず、また特定の画家に師事したこともなく、独学で自己の作品世界を築き上げた。それまでの水彩画も独学なら、油彩画も独学であった。画筆の洗い方などの基礎的なことは小野から教えられたと思うが、あとは少女雑誌の挿絵を真似たように、ゴッホの作品などの図版を描き方の手本にして、青森の風景を描いていったものと想像される。2 最初期の作例油彩画を描きはじめた翌年の大正11年(1922)に、棟方たちは、青森で青光画社というグループを設立して公募形式の展覧会をはじめる。青光画社については、對馬恵美子氏の詳細な調査(「青光画社」考―棟方志功生誕百年にちなんで『青森県立郷土館調査研究年報』第28号2004年)があり、このグループの活動や棟方が上京する時期など、従来の年譜の記述に修正が加えられることになった。『東奥日報』紙に掲載された同展関連の記事をみると、大正11年の第1回展の記事には出品者名が一切ないが、翌12年の第2回展を伝える記事では「棟方しこう」以下、飯島強、斉藤勇也(注5)ら計六人の名を記し、「集まった画は大体油絵で第1回展
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