―170―棟方が青森を離れるのは、これまで言われてきた大正13年9月ではなく、翌14年の9月7日だと結論づけている。であれば2月にはまだ青森にいたわけで、近辺の実景を描いたものと推測される。《松原図》という題名は寄託に際して付されたものだという。翌年の第9回青光画社展の出品作を掲載する『東奥日報』大正15年9月11日付記事中に、《稚い松のある景色》《稚松小品》という作品名があるので、描かれた松の枝振りをみると、このシリーズの一点とも推察される。これらのほぼ同時期に描かれた風景画を比較すると、身近な風景を題材として短期間内にさまざまなスタイルを試しているのがわかる。前述した青光画社展がこの頃の発表の中心であり、このグループにも加わった松木満史、古藤正雄、鷹山宇一らが親しい絵画仲間であった。また、すでにキャリアを積んでいた下澤木鉢郎とも知り合い、先に述べた小野忠明をはじめ、将来作家となるこうした人々との交流によって情報を得て、油彩の技法を学んでいったものと思われる。「洋画描くなら、紫の陰つけねばマイネど(だめだ)、そうさねば洋画にならねえど」…それからいっとき、わたしは、太陽のかげも、犬も、牛も、馬も、木も、みんな陰は、紫にしたのでした。…「ン、ほんだ、ホンダ。紫派だネ」(『板極道』)と仲間と語りあう素朴な時期があって、しだいに次のように意識が変わってゆく。「この青光社から次第にカゲは紫に描かなければいけないという時代から、もっと個性的にというのか、後期印象派のように変わっていったようです。」(注8)大正末年頃の作品群は、棟方のいう「後期印象派」に該当するものであろう。この四点はすべて支持体が板である。筆者は今回の調査中に、油彩画を描いた4号サイズの板の裏面を版木に使用した作例に出会った〔図5〕。この版木は、昭和3年の第6回春陽会展に入選した多色摺版画《帚星を見る人々》(のちに《貴女達・帚星を観る》と改題して版画集『星座の花嫁』に収録)の紅版と思われる。版木への流用は、この紅版だけではないだろう。この時期の板を支持体にした油彩画の多くは版木にされてしまったかもしれない。3 様式の模索帝展をめざして油彩を描き続けるものの、落選がつづき、初入選を果たすのは昭和3年(1928)のことである。入選作《雑園》〔図6〕は所在が確認できないが、図録に掲載された写真を見ると、青森時代の「後期印象派」的な画風からは遠ざかってい
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