―171―るのがわかる。遠近の圧縮や装飾性を感じさせる線描表現など、構図を重視したモダンな様式への関心が感じられる。昭和5年に青森の東奥美術展に出品した作品について、同郷の画家の今純三は「棟方志功氏の諸作、画面がピンクとエメラルド、或いは朱と空色、乃至は赤と藍との対比をもって構成され、情熱的に、表現的に、必然的に描かれてある。『風景』と題された一点など仏蘭西画壇の大ものルオーの作品に見る豪壮さを持つ調子にまで至っている」(『東奥日報』5月14日)と評している。《風景》に該当する作品は不明だが、この頃の《赤松林》や《合浦公園藤棚》〔図7〕の重厚な絵肌はルオーを連想させる。帝展ではまた二年間落選が続き、昭和6年(1931)の第12回帝展に《荘園》〔図8〕が三年ぶりに入選する。連作の一点と思われる《庭》〔図9〕でも、温室や噴水などモダンな都市生活の光景がモティーフとして選択されており、この時期の作品は、棟方志功の作品としては異質な印象を受ける。形態や遠近が歪められ、絵の具も比較的薄塗りで、ゴッホというよりはマティスの室内画を想わせるような画風である。昭和8年(1933)には青森市で個展を開催し、温室のシリーズなど近作油彩画50点を展示しているが、東奥日報記者で後に青森県知事となる竹内俊吉が棟方の作風の変化について次のように指摘している。「棟方君の最近の傾向はリアリズムから可成遠い世界へ入ってるという気がした。殊に温室をかいた数点の絵など『創造の意志』というようなものに貫かれていて、自然はそのつぎに、その意志を強き鞭を揮う御者として現れていて、ぢっと絵を見ていると『こいつは自然を鞭撻している』という気がする」(注9)竹内は、自然主義的写実表現からの脱却を好意的にとらえているのだが、このモダンなモティーフの展開は長く続かなかった。この時期に棟方と知り合っている小高根二郎によると、帝展に初入選した《雑園》は、青森の果樹園を東京で想像しながら描いたもので、温室のシリーズは全くの空想画だという(注10)。前述したように棟方には弱視という障害があって遠近法による写実に限界を感じていた。昭和初期は、帝展でもなかなか入選がかなわず、一方で版画に関心が移りはじめ、油彩画の方向を見出せずにいた時期である。視覚に障害があるこの画家にとって、写実に拘束されない空想画は、可能性を感じる世界であったはずだ。しかし、棟方の油彩画制作の原点は写生であり、写生による風景画をこの後も続けてゆく。上京後の棟方の制作について、下澤木鉢郎は「暇の少ない生活だったので、油絵の六号、八号などは、十分もかからない早さで仕上げていた。三十号ほどのものでも一気に描き上げる修練は、最初からしていたわけである。」(注11)と語っている。また
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