―172―後年の昭和15年のことだが、写真家の土門拳が棟方と一緒に沖縄に行ったときに、海岸で油彩画を描く棟方の姿を撮影することになったものの、カメラの蛇腹を伸ばして、ピントを合わせて、フィルムを装填するあいだに一枚の絵を仕上げてしまい、同じ事の繰り返しで結局写真が撮れなかったという逸話が残っている(注12)。早描きは、棟方志功の油彩画の最大の特色であろう。早描きによる写生という独特の油彩表現が形成されるのが昭和10年代である。先に紹介した青森時代の作品や昭和初期の帝展の出品作は、それほど早描きとは思えず、丹念に筆を運んでいる。しかし、昭和10年代以降は、速度をもった筆づかいで描く、「どろどろごてごて」という、フォービスムというよりは表現主義絵画を思わせるスタイルが主流となり、これが棟方の油彩画として定着していくのである。4「日本の油絵」を求めて昭和戦前期の棟方の油絵観は、自叙伝『板極道』の中に示されている(以下の引用文はすべて『板極道』から)。「わたくしは、梅原竜三郎、安井曾太郎の両先生こそ洋画壇の二ツの大きな峰であると思いつめていました。」と敬愛する画家の名を挙げる。梅原の画風を思わせる《薔薇花卉図》〔図10〕や、安井が同じ題材で二科会に出品していた作品を彷彿とさせる《奥入瀬・渓「阿修羅」》〔図11〕の存在はこの言葉を裏付ける。しかし、先の文章に続けて「梅原、安井の神様のような両先生でさえ、西洋人の弟子でなかったか」と言いきる。そして自身のことに触れ、目標となる画家たちの名を挙げている。「とくに日本の油絵というものを描きたいと思います。梅原、安井はまずとして、亡くなった萬鉄五郎、関根正二、村山槐多、あるいは最近亡くなった上野山清貢とか、また野口弥太郎氏とか鍋井克之氏とか、そういう方たちこそ、日本の油絵をすすめて来た人ではないかと思います。」「日本の油絵」は棟方が発言するまでもなく、近代の洋画家たちにとって最大の課題であった。棟方の視野に入っていた画家たちのうち、萬、関根、槐多は、油彩表現の独自性が戦後になって再評価された画家たちである。戦前にもこの三人の信奉者がいたが、棟方は特に惹かれていたようで、自叙伝の中でたびたび言及している。「萬鉄五郎、関根正二、村山槐多などの絵は、いつどんな場合でも、心の中へさしこんで、しみつかんでくれる日本が、まざまざと油絵にされているのでした。そのころ、この三人の絵を拝むような敬虔な気持で見たものでしたが、いまでも萬氏の絵の前に立つと、油絵としての日本の無上を受けるのです。萬氏の絵には、こみ上る日本
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