鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
189/543

―181―q圖銘並序 趙□6(塔の各面に一龕ずつ嵌め込まれると推測される)(金石目四。直隸順天永清東南一里塔兒巷)」(注19)3):長安三年(703)河南相州靈泉寺 塔彌勒像「v塔供w。x以三年廿五日□□永畢。塔p便t以彌勒像一鋪。」(安陽縣萬佛溝西に在り「大周相州安陽縣靈泉寺故寺主大)智□師像塔之銘並序」の中の文すべし。安陽縣金石%に出づ。)(注20)めこまれる。この種類の塔と浮彫像は法量が大きく、建築と造像の一体化の結果、浮彫龕像は空間的に組織化される。塔と石龕像に関して以下のような文献記録がある。1):初唐時代:長安玉華宮南檀臺山穆王寺 磚塔 四面石龕道宣の著『3宣律師感f%』には佛龕を嵌め込まれた塔についての記録がある。磚塔の四面石龕に石浮彫像は嵌め込まれたと推測される。「今玉華宮南檀臺山。有磚塔。面別三十j。下4極壯。四面石龕、旁有碎磚。又有三十余窯磚。古老莫知年代。然k聞鐘聲。答云。此穆王寺也。名曰靈山。」(注16)2):垂拱三年(687):洛陽龍門香山寺:l(高)楼、飛閣、七龕石像、八角浮図「以垂拱三年十二月二十七日。……伊水之左。門人修理靈龕。加5重閣。因v精盧其側。掃灑供w焉。後因粱王n奏o。置伽藍。敕p注名爲香山寺。m樓切漢。飛閣凌雲。石像七龕。r圖八角。駕親游幸。具題詩讚云爾。」(注17)佛龕を嵌め込まれた塔についての金石銘文もある。1):武周萬ef天二年(697)河南許州府長縣馮善廓ら供養 q圖龕像「……以大周萬ef天二年e次景申肆月丙演十四日己卯str圖一n。石像□區。爾其玄石疊重。雜u雲之氣色。紫金圓滿。含日月之光輝。……(p崛君拓本。石高二尺一寸、闊一尺五寸五分。中に龕像あり。龕高一尺三寸、闊六寸二分。)」(注18)2):武周聖I二年(699)河北武縣令聞生元相供養 四面像並q圖石幢「武縣令聞生元相爲金輪聖神皇帝t四面象(像)並r圖石幢聖I二年二月八日4):景龍三年(709)阿弥陀仏三尊像(注21)浮彫 高さ:46.5cm、幅:44cm厚:7.6cm漢白玉石質 1986年9月陝西省禮泉縣城東北14公里處的趙鎭水泥長出土された 中国陝西省禮泉縣博物館に収蔵されている。この造形伝統はその後の開元年間になると、より発展した。以上造塔造像の時代風潮から、本論は七宝台の浮彫佛龕は仏塔への奉献を意図していたと考える。先行研究の復元の中心柱説と違い、本論はこれらの像はもともとは奉献石塔の壁に嵌めこまれていたと推測する。

元のページ  ../index.html#189

このブックを見る