―182―さて、創建期の浮彫像はいかに石塔の各面にはめ込まれていたか、本論は別の種類の奉献石塔を参考にする。この種類の石塔は各面に浮彫像を彫出し、何層も積み上げ、塔となる。現在、長安、洛陽における保存状態がよい作例からみると、一つの塔は基壇、塔身、相輪からなる。例えば洛陽の長安三年(703)銘の石塔では、基壇の様式は二種類ある。一種類は二層四面方形石からなる。もう一種類は下層が八面柱式であり、上層は蓮台座の形である。塔身は一層から七層まで、形は四面柱式と円柱式二種類がある。相輪は常に蓮台と宝珠からなり、一部分の石塔には装飾がない。他の一部分の石塔の塔身の各面に仏龕と仏像が彫出されている。石塔の四面の浮彫仏像の図像は三つの段階を経て成立する。第一段階:唐以前、各面の如来像の造形は同じく普遍の如来像で表現される。第二段階:初唐から武周時代にかけて、薬師仏以外の三仏が造形の特徴を持つ。初唐時代から、長安における大乗の四仏の信仰に応じ、阿弥陀仏、弥勒仏、釈迦仏、薬師仏各自の造形特徴が次第に成立する。まず、四仏は各自が主宰する浄土世界を持ち、なおかつ、その浄土世界の所在は中国伝統的な東西南北という強く信じられる宇宙観に結ばれた。つづいては釈迦仏と他の三仏の造形表現である。南北朝時代から、阿弥陀仏はすでに西方浄土世界の教主としてのイメージが強くみられる。初唐時代になると、浄土教は善導など大師によってより本格化する。南北朝時代においては、弥勒上生信仰を説く経典に基づいて、弥勒像は一般的に菩薩装で表現されていた。武周時代になると、政治のために、下生した弥勒像は転輪王、皇帝武則天の象徴として常に仏装、倚座像で表現されている。弥勒仏像が椅子台座を持ち、阿弥陀仏像は蓮台座を持つという造形ルールは初唐時代に既に成立していた。こういった阿弥陀仏と弥勒仏の性格、造形の特徴が明確になるとともに、武周時代になると、釈迦仏の性格も変わる。一つの変化は、釈迦仏はインド歴史上実在の人物として、悟りを開き、仏に成ったという仏伝が幅広く信じられるようになったことである。また、玄奘、王玄策、義浄など西行求法者によって降魔成道地から請来された真容像が大流行する。この像は釈迦仏がインド風の偏袒右肩の袈裟を着て、頸飾り、釧など装真具を付け、降魔印を示す。そして、釈迦仏の法力を象徴する金剛座と永遠の存在を象徴する菩提樹が鮮明な造形特徴である。第三段階:おそらく武周時代以後、薬壷を持つ薬師仏の造形が成立する。その代表的な作例は長安実際寺で発見された四面塔である(現在は中国西安にある西北大学博物館に収蔵されている)。この塔の四面に四つの三尊像がある。釈迦仏像と推測される主像は金剛座、袒右肩、降魔成道印を示す。その相対の面には弥勒仏像が椅子座に
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