鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
192/543

―184―神と仏法の関係であると考える。2:創建期浮彫像の建築と図像のプログラム(program)本論は以上調査研究に基づいて,武周時代の仏教モニュメント造形一般的様式を参考にし、浮彫を安置していた石塔は基壇と塔身、相輪からなったものと推定する。基壇の部分は同じ時代の石塔の二層基壇を参考に、二層と推測する。上層は八面柱式で、その正面には降魔印五尊像が安置され、その周りに7点の十一面菩薩像が嵌め込まれていたと考えられる。下層は八面蓮台であろう。塔身部分の形は四層四面塔であろう。長安、洛陽地方に大流行する四面石塔のルールに基づいて、各層に仏龕が組織化されたものとして、正面(南面)には釈迦仏三尊像、西面には阿弥陀仏三尊像、北面には弥勒仏三尊像、東面には薬師仏三尊像が嵌め込まれていたと推測する。主題は祈福と滅罪、往生である。相輪部分には蓮台の上に宝珠が乗せていると推測する。しかし、この部分は残失してしまった。この石塔のイメージは長安四年九月十八日姚元景供養した彌勒像三尊像の銘文“…法柱承雲,排紺霄爾舞鶴.雲日開朗,金光炳然.風塵晦冥,玉色逾潔白…”から想像できる。その高さは6〜7メートルで、高い石柱の形に近い。そして、開元十二年(724)の刻銘“…華7覆像,盡垂交露之珠.玉砌8龕,更5雄9之寶…”によると、:國公楊(思勗)は七宝台を補修するとき、法堂内部には二つの仏教造形を注目している。一つは華麗な天蓋下の仏像であり、も一つは複数の石仏龕像が並んでいたものである。この複数の石仏龕像からなるものはおそらく本論で推測する奉献石塔であろう。この石塔は七宝台の中心部に安置され、その礼拝方法は二つであろうと思う。一つは塔と同様に右繞礼拝するものと思われる。もう一つは聖I元年(698)の敦煌332窟と同じく、供養礼拝は石塔を中心に行う形である。補修期の8点の像は開元年間に楊思勗らが七宝台を修理するとき、再び作り上げた奉献石塔の壁に嵌めこまれたと考える。ただ、現存作品の数が少なくないので、復元ができない。光宅寺の創建期の壁画は主に于í出身の異国風の画を得意する尉遅派の画家によって描かれた。壁画の場所は七宝台の上層の窓の下、七宝台の後ろ、普賢堂の内部、東菩提院で、内容は本生の釈迦仏降魔成道という場面である。この降魔印を示す釈迦仏は創建期奉献石塔の正面にある釈迦三尊像の図像と意義は一致する。普賢堂内の壁画の様式について、鮮やかな色(凹凸)、立体感、異国風が溢れるイメージがよく出されていて、観者は“奇”、“険”な印象を受ける。

元のページ  ../index.html#192

このブックを見る