5和田英作と装飾美術―188―研 究 者:日本女子大学 非常勤講師 手 塚 恵美子はじめに明治から大正、昭和にかけて活躍した和田英作(1874−1959)は、日本の洋画壇発展期において、白馬会会員、東京美術学校西洋画科指導者として多くの業績を残し、その後半生は東京美術学校校長、帝室技芸員、芸術院会員、文化勲章受章、文化功労者という経歴と栄誉に彩られながら、研究対象とされることが多いとはいえない美術家である。その理由として、日本近代洋画史に大きな足跡を残した黒田清輝の忠実な後継者であり、彼の枠内に納まる画家であったという印象がついてまわったこと、富士や薔薇を代表的モティーフとする、作画活動後期の堅実な写実を基礎とした穏健で親しみやすい作品群が、後の世代に否定され、美術史的にも積極的な価値評価の外に置かれてきたことが指摘されている(注1)。近年、このような和田のイメージを見直し、「日本的洋画とはなにか」という視点から、彼の芸術活動を展望し再評価しようとする展覧会の試みがなされた(注2)。和田の豊かな作画活動の美術史的、文化史的な意義について新たな問題を提示したそれらの展示と展覧会カタログは、彼が手掛けた装飾美術関連の作品・資料をも公開し、あまり知られていなかった装幀、絵葉書図案、舞台美術、建築装飾など、絵画以外の分野での活動を見る者に伝えて、興味深いものであった。そうした観点から残された作品・資料を見直し、過去の文献に当たってみると、黒田清輝も振興の必要を唱えていた図案や建築装飾など装飾美術の分野において、和田が志を同じくし、それを実践的制作に移し奮闘し、黒田の枠組を超え、一時期周囲の画家の誰にも増して、時代の要求に応えて多彩な活動を行っていた装飾美術家としての新たな和田英作像が浮かび上がってくる。かつて岩村透は、和田を評して「装飾画家的感情が氏の製作の長所でないのは当然である」と語った(注3)。この画作における特徴は、和田の絵画を個性やメッセージ性よりも装飾性が勝るものに傾斜させ、短所にもつながりかねない要素をはらんでいた。しかし、色彩を装飾的に取り扱うことに興味を覚えると自認し、色彩の調和やコントラストを主眼とした構図に心を砕いた彼の創作上の志向は、実際に装飾美術そのものを手掛けるに当っては、大きな長所として力を発揮したのである。以下では、和田英作と装飾美術との関わりを概観するとともに、特に彼が力を注いデコレーターである、挿画家である。であるから詩イラストレーター
元のページ ../index.html#196