―189―だ建築装飾に焦点を当て、これまで言及されることのなかった作品や関連資料をも取り上げながら、彼の装飾美術分野での業績と、その意義について考察してゆきたい。1.装飾美術への志向―アール・ヌーヴォーに向けたまなざし和田は、画業の早い時期から、新聞・雑誌・書籍の装幀・挿画を手掛けて才能を示し、その分野で美術関係者のみならず一般にも認められた存在となっていった。初期の作品で「白馬会懸賞特等」となった1897年の『智徳会雑誌』表紙画には、「外国の雑誌等に倣って、何時か図案的なものを描いて見たい」(注4)と考えていた彼が、フランスのアール・ヌーヴォーを主導したウジェーヌ・グラッセの作品を参照したことが見て取れる(注5)。この頃からグラッセを研究していたことは、後に和田が展開する幅広い活動を考える上で示唆的である。グラッセは、グラフィック・デザインをはじめ、モザイク、ステンドグラス、テキスタイル、家具・シャンデリア等を含む室内装飾、宝飾品のデザインまでを手掛けるアーティストであり、教育者であった。1900年から3年間、文部省留学生としてパリに滞在した和田は、ラファエル・コランに油彩画を学ぶ一方、グラッセのもとで装飾美術を学んだとされる(注6)。グラッセが教鞭を執っていたEcole Normale d’enseignement du dessin(通称Ecole Guérin)で教えを受けた可能性が指摘されているが(注7)、後年和田がグラッセとの関わりを語ることはなく、詳細は明らかではない。しかし、彼が絵画修業のかたわら熱中していた自製絵葉書や雑誌表紙の図案、日本人留学生の親睦団体の会誌『パンテオン会雑誌』に寄せた作品は、グラッセからの造形的影響や、和田がステンドグラス、モザイク、テキスタイルなどのデザインにも関心を持っていたことを示している。一例として、和田が友人に送った自製絵葉書の図案(1902年)〔図1〕には、グラッセ原画によるステンドグラス《Printemps》(1894年)〔図2〕の背景に見られる桜花のデザインとの類似が見られ、日本の美術からインスピレーションを得ていたグラッセの作風が、和田によって消化され日本化された例として興味深い。こうしたことからも『智徳会雑誌』以来、グラッセに私淑し研究していたことが伝わってくるが、和田がグラッセをはじめ留学期に隆盛していたアール・ヌーヴォーから学んだものは、造形的なものだけでなく、むしろ社会との関わりの中で様々な創作活動を行う姿勢、そしてそれを通じて人々の美術意識を高めるという理想だったのではないだろうか。それが帰国後の多彩な活動の基礎になっているように思われる。和田の図案への熱意は真剣なもので、それは3年の留学期限が終りに近づき延長を願い出た際、黒田清輝と交わした書簡にも現れている。黒田は「兎モ角図案研究ヲ以
元のページ ../index.html#197