―190―(注9)。従来知られている以上に、図案への想いが深かったことが感じられる。結局、テ進ム事大ニ利益アル事ニ候」として、東京美術学校の正木校長に「マスへ図案ノ必要ヲ感ジ自身ノ修業ハ勿論兼テ図案教授法等ヲモ研究シ居ル旨」の手紙を出すことが肝要と書き送った(注8)。それに対して和田は「私の好きな道を選んで下さり之を御推挙被下るゝといふのは父母に及ばぬ御親切と感謝に堪えませぬ」と大変な喜びようで、留学延期が叶えば充分な時間を図案教授法の研究に費やしたいと返信している留学延期は認められなかったが、帰国後東京美術学校西洋画科教授に就任した後も、和田はこうした並々ならぬ図案への意欲を下地として、様々な装飾美術に取り組んでゆくことになる。2.社会を彩る―多彩な活動帰国後の和田は、以前にも増して、数多くの雑誌・書籍の装幀・挿画を手掛けていった。鹿児島市立美術館には、和田が切り取って保存していた1896年から昭和初期にかけての『白百合』『新小説』『学燈』『ハガキ文学』『キング』など、和田原画による雑誌約20種の表紙103点が所蔵されている。このほか『光風』『忍ぶ艸』『三田文学』『スバル』や博文館発行の諸雑誌の表紙、『明星』『半面』をはじめとする雑誌口絵・挿画、島崎藤村や巌谷小波ら文学者との交流を機縁とする文学作品の装幀・挿画などを総合すると、和田によるグラフィック作品は相当な数にのぼる。また、和田は芝居を非常に好んで、しばしば劇場に通い、自ら戯曲を書いたこともある。そして舞台美術にも手を染めるようになり、その大きなものとしては、1906年12月、明治座で上演された森鴎外作「日蓮辻説法」の背景画が最初の作となった。それまでにも数回背景を依頼されて試みていたが、思う通りにやってみることができるのは「実に僕に取つて檜舞台の、今回が初舞台であるのだ」と、大変な意気込みで臨んだ仕事だった(注10)。役者の衣裳との色彩的調和を綿密に研究し、壁画風に明暗をつけずに淡い色調で描いた背景は、観客から喝采を浴び、批評家からも評価を得た。1908年3月には、明治座の山崎紫紅原作「歌舞伎物語」の興行で、岡田三郎助、中澤弘光、北蓮蔵らと共に、洋画による舞台背景を手掛けて、賞賛されている(注11)。1911年の帝国劇場開場後に上演された松井松葉作「最愛の妻」では、北と背景画やエジプト式建築の舞台装置を手掛け、舞台照明についても指揮を執ったという(注12)。こうした背景画の写真資料を見ることはできないが、1923年2月1日〜25日に帝国劇場で上演された山本有三作「指鬘縁起」で和田が手掛けた背景については、下絵8点が残されている。物語は古代インドを舞台に、一人の波羅門の弟子が、師の妻によ
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